明顕山 祐天寺

年表

弘化02年(1845年)

祐天上人

順良名号石塔、建立

4月、三条天性寺(京都市中京区)に順良の名号石塔が建立されました。順良は弘化元年(1844)11月に知恩院69世を退き、天性寺に隠居後、この年の12月16日に遷化しました。世寿73歳でした。順良は祐水(祐天寺2世祐海の弟子)の弟子です。

参考文献
順良名号石塔(天性寺)、『寺録撮要』1

下村家供養塔、建立

4月、下村宗悟が歴世一族の霊と栄舟信女の菩提のために、祐天上人の名号を刻んだ供養塔を、祐天寺に建立しました。 
下村家は代々、下村屋小左衛門の屋号で本両替町(中央区)に店を構えて、白粉や紅、髪に付ける香油などを販売していました。文政7年(1824)に発行された『江戸買物独案内』という江戸の商店紹介誌の中で下村山城掾という名誉称号を使用していることや、嘉永7年(1854)6月2日に御用金1、000両を納めていることから大店だったことがわかります。 
祐天寺には下村家の法号が70霊ほど納められているほか、祐天上人名号の利益を得た人々により祐天寺に建立された百萬遍塔(文政4年「祐天寺」参照)にも下村小左衛門の名が刻まれています。

参考文献
下村家供養塔、百萬遍塔、『江戸叢書』11(江戸叢書刊行会編集・発行、1917年)、『江戸買物独案内』(花吹一男編、渡辺書店、1972年)

円光寺に名号石塔、建立

5月23日、盛岡円光寺(岩手県盛岡市)に祐天名号石塔が建立されました。円光寺25世立巌が建立したものです。立巌は円光寺の庫裏再建などの功績を認められ、中興の号をたまわりました。明治13年(1880)6月10日に遷化した際、この石塔に「当寺二十五世再中興 勇蓮社良専上人立巌老和尚 明治十三辰年 六月十日」と追刻されました。

参考文献
祐天名号石塔・立巌位牌(円光寺)

豊姫、逝去

8月4日に紀州藩(和歌山県)15代藩主徳川斉順(11代将軍家斉の7男)の御簾中の豊姫(14代藩主治宝の息女)が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は鶴樹院殿瑶光心明大姉です。 
祐天寺には豊姫息女の菊姫の法号(瓊淳院光粲乗誓大童女)が刻まれた合祀塔もあります。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『和歌山市史』2(和歌山市史編纂委員会編、和歌山市、1989年)

九品寺名号石塔、建立

磐城九品寺(福島県いわき市)に祐天上人名号石塔が建立されました。別時念仏2万5、000日達成の記念碑です。逆算すると、この別時念仏は安永5年(1776)頃から始められ、68年と半年ほどを費やしたことになります。

参考文献
祐天上人名号石塔(九品寺)

寺院

歓幢、知恩院に住す

5月26日、新田大光院(群馬県太田市)57世歓幢が台命により知恩院70世となり、翌年5月27日、大僧正に任じられました。在住中には、先帝仁孝天皇の遺品である唐桑文台および硯箱が知恩院に寄進されました。

参考文献
『浄土宗人名事典』(大橋俊雄、斎々坊、2001年)、『知恩院史』、『浄土宗大辞典』

風俗

幕府、開国を拒否

6月、幕府はオランダ国王ウィレム2世(「解説」参照)から届けられた親書に対し、返書と贈答品を送りました。この親書の内容は、将軍に日本の開国を勧めるもので、先年に起こったアヘン戦争(天保11年「解説」参照)で国内が混乱に陥った清を例に挙げ、このままでは日本も清同様の被害を受ける危険があると記されていました。 
親書を受け取った幕府内では活発な議論が行われました。一度失脚しつつも異例の抜擢で老中に返り咲いた水野忠邦(天保10年「人物」参照)は、勧告に従って開国するべきだと主張します。しかし、ほかの幕閣たちはあくまでも開国を拒みました。 
返書の内容は、オランダ国王の誠実な友情と真心に感謝しつつも、祖法により将軍直筆での返書はできないこと、オランダとの関係は通商のみで親密な交流は結べないことなど、鎖国体制の維持を宣言するものでした。忠邦はこの返書の作成に携わることなく、再任からわずか8か月で病気を理由に辞職しています。しかしその実態は、開国を主張したために失脚させられたとも言われています。 
そして、オランダにおいてこの返書に誰よりも落胆したのはおそらく、フィリップ・シーボルト(文政7年「人物」参照)だったと思われます。オランダ国王に対して日本へ開国勧告するよう説得した人物こそ、シーボルトその人でした。シーボルトは激動する国際情勢に背を向けている日本の危険な状況を憂慮し、親書の起草も手掛けました。さらに、日本がオランダ国王からの勧告を拒否したことを知ると、ロシア皇帝へも日本への開国勧告を訴え、再び親書の起草を手掛けています。

参考文献
『増訂近代日本外国関係史』(明治百年史叢書、田保橋潔、原書房、1976年)、『水野忠邦』(人物叢書、北島正元、吉川弘文館、1969年)、『シーボルトと鎖国・開国日本』(宮崎道生、思文閣、1997年)、『日本全史』

出版

『釈迦八相倭文庫』

万亭応賀の代表作『釈迦八相倭文庫』の刊行が始まりました。全58編232冊をもって完結するのは明治4年(1871)のことです。 
釈迦八相とは釈迦が衆生を救うために示した8つの相のことで「降兜率・入胎・住胎・出胎・出家・成道・転法輪・入滅」を指します。つまり本書は釈迦の一生をつづったものと言えるでしょう。 
応賀は当時すでに流布していた釈迦の伝記を、釈迦と提婆達多の対立を中心にして書くことで勧善懲悪の色彩を強くしました。また、挿絵などに江戸後期の風俗を取り入れることで現代化を試みるなど、婦女子の興味を引く工夫も怠っていません。 
当時、これほどの長編合巻を約25年もの歳月を掛けて、1人で書き続けることは大変珍しいことでした。応賀の深い学識に基づく構成の巧みさと、この作品にかける意気込みが感じられます。

参考文献
『釈迦八相倭文庫』(大橋新太郎編、博文館、1902年)、『日本古典文学大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』

人物

遠山金四郎景元 寛政5年(1793)~安政2年(1855)

テレビドラマでおなじみの「遠山の金さん」は通称を金四郎、名を景元と言います。 
金四郎の家庭事情は複雑です。父の景晋は旗本永井直令の4男でしたが、同じ旗本の遠山景好に子がなかったため養子に迎えられました。しかし、景晋が養子となってまもなく景好に実子景善が生まれ、これを差し置いて跡継ぎとなることを心苦しく思った景晋は、景善を自分の養子に迎え、遠山家の跡継ぎとします。ところが、景善も景晋の実子である金四郎を差し置いて跡継ぎとなるのは良くないと考え、金四郎を自分の養子に迎えました。景善にも実子がいたため、金四郎もやはり居心地の悪い思いをしたことでしょう。そのため、金四郎はこの頃に遊里や賭場などに出入りして放蕩の日々を送っていたのではないかと考えられています。 
しかし、養父の景善が家督を継ぐ前に死去し、金四郎は文政8年(1825)に正式に遠山家の跡継ぎとなりました。小納戸役としての初出仕以降、順調に出世を重ね、48歳で町奉行へと上り詰めます。将軍家慶がその裁判を上覧した際、取り調べの鮮やかさに奉行の模範であると絶賛したことから、金四郎には「名奉行」との評判が定着していきました。また、同じ頃に町奉行となった鳥居耀蔵(嘉永4年「人物」参照)が、天保の改革(天保12年「事件・風俗」参照)を推し進める水野忠邦の方針に忠実で、あまりにも厳しく庶民生活を締め付けたのに対し、金四郎は忠邦と意見が合わないことも多かったようです。「奢侈禁止令」などを発布して入れ墨や富札を禁止することもありましたが、江戸の実情をよく理解して「株仲間解散令」などには抵抗するなど、金四郎は臨機応変に改革を進めようとしました。庶民生活に通じた公正な采配が「庶民の味方の名奉行」というイメージを作り上げていったのでしょう。 
忠邦への抵抗が基で天保14年(1843)に町奉行を免ぜられ大目付に転じますが、ほどなく改革が失敗して忠邦や耀蔵が失脚すると、再び金四郎は町奉行に返り咲きました。53歳のときです。60歳で病気を理由に隠居後は、剃髪して帰雲と号しました。享年は63歳。庶民のヒーロー「遠山の金さん」の伝説は、明治26年(1893)に中根香亭の『帰雲子伝』で紹介されてから講談や歌舞伎などにも取り上げられるようになり、市井へ広く浸透していきました。

参考文献
『遠山金四郎の時代』(藤田覚、校倉書房、1992年)、『歴史発見』8(NHK歴史発見取材班編、角川書店、1993年)
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