明顕山 祐天寺

年表

天保14年(1843年)

祐天上人

尊徳、祐天寺に参詣

3月20日、二宮尊徳が祐天寺に参詣しました。この頃の尊徳は江戸西久保(港区)の旗本宇津家の別邸に滞在していましたが、この日はまず目黒不動(目黒区)、それから祐天寺、渋谷金五八幡(渋谷区の金王八幡のことか)、青山教学院(目青不動。現在は世田谷区に移転)に参詣しました。

参考文献
『二宮尊徳全集』3(二宮尊徳、二宮尊徳偉業宣揚会、1927年)

辰方、逝去

5月1日、有職故実家の松岡辰方が77歳で逝去し、祐天寺に葬られました。法号は礼本院倹誉巍徳中和居士です。

松岡家は、久留米藩(福岡県)江戸藩邸の老女であった松岡が始祖です。松岡は8代藩主有馬頼貴の正室である養源院(安永4年「祐天寺」・「説明」参照)のお附きでした。7代藩主頼.が松岡の長年の忠勤に報いるため、長州藩(山口県)藩士酒井忠良の次男である辰方を松岡の養子とし、松岡姓を与えて士族に加えました。辰方は松岡の養子となったことをきっかけに、祐天寺への信仰を受け継いだと思われます。

辰方は塙保己一の和学講談所に入り、『群書類従』の編纂事業に携わりました。伊勢貞春や高倉永雅に師事して自ら「松岡流」と称し、有職故実の大家となりました。著書には『装束織文図会』『皇統略図』など多数あります。辰方の学問は子の行義、孫の明義へと受け継がれていきます。

参考文献
松岡辰方墓、『本堂過去霊名簿』、『久留米人物誌』(篠原正
一、久留米人物誌刊行委員会、1981年)、「祐天寺にある国学者松岡家三代の墓」(佐々木逸已、『目黒区郷土研究』147、1967年)、『寛政重修諸家譜』8

境内作事絵図、提出

5月上旬に祐梵は、増上寺を通して寺社奉行の戸田忠温に、祐天寺境内の作事絵図を提出しました。

絵図には天英院の仏殿が庫裏の後方に描かれ、現在の寺務棟の奥辺りに位置していたことがわかります。また、表門は冠木門(2本の柱の上部に横木を貫き渡し、上に屋根を掛けた門)でした。

参考文献
『御府内配下寺院境内作事絵図』

祐玉、遷化

8月2日、岩槻浄国寺(さいたま市岩槻区)41世の祐玉が遷化しました。法号は潤蓮社廉誉上人生阿愚掬祐玉大和尚です。

祐玉は祐天寺9世祐東の弟子で、この年の6月26日に浄国寺住職を拝命したばかりでした。祐天寺に祐東と合祀された墓があります。

参考文献
祐東・祐玉墓、『過去霊簿』

祐良、遷化

8月22日、祐良が遷化しました。法号は観蓮社行誉上人即阿心善祐良和尚です。

祐良は順良(知恩院69世)の弟子で、初めは順常と称していました。順良と同じく江州田上郡羽栗村(滋賀県大津市)の生まれで、順良の親縁にあたります。知恩院に祐天寺10世祐麟と合祀された墓があります(嘉永6年「祐天寺」参照)

参考文献
祐麟・祐良墓(知恩院所蔵)、『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

唯称庵へ名号、奉納

8月24日、祐天上人名号軸が一位様から永世什物として広島唯称庵に奉納されました。「一位様」とは、11代将軍家斉の御台所の茂姫〔薩摩藩(鹿児島県)8代藩主島津重豪の息女〕のことと思われます。唯称庵は昭和24年(1949)に廃庵となり、什物は昭和51年(1976)に無量光寺(和歌山県和歌山市)に引き継がれました。

参考文献
祐天上人名号軸書付(無量光寺)、『徳本行者全集』5(戸松啓真編、山喜房佛書林、1979年)、『徳本行者全集』6(戸松啓真編、山喜房佛書林、1980年)、『徳川諸家系譜』1

勝尾寺に道しるべ供養塔、建立

9月、西国三十三観音霊場第23番札所の箕面勝尾寺(大阪府箕面市)境内に、祐瑞(嘉永5年「祐天寺」参照)名号付き道しるべ供養塔が建立されました。四国二十一度行者(四国遍路を21度参拝して回った行者のこと。遍路の元祖とされる河野衛門三郎が21度回ったことに因む)である丹州何鹿郡私市邑(京都府福知山市・綾部市)の大嶋弥三郎の菩提を弔うために建立された旨が、塔の側面に刻まれています。正面には「みのふたきごし中山寺へ」と刻まれており、次の第24番札所の中山寺へ向かう方角を指しています。

参考文献
祐瑞名号付き道しるべ供養塔(勝尾寺)

高野山に名号石塔、建立

11月、高野山奥の院(和歌山県伊都郡)へと続く参道に建つ「宝井其角の句碑」の左側に、祐天名号石塔が建立されました。施主は勢州津(三重県津市)の田中治助左衛門です。右側面に「為蓮誉宗如法子菩提建之」、左側面に「家門先祖代々三界萬霊一切法界」と彫られていることから、蓮誉宗如法子と先祖の供養のために建てられたものとわかります。

参考文献
祐天名号石塔(高野山)

祐梵、遷化

12月23日、祐梵が52歳で遷化しました。法号は常蓮社修誉上人一心行阿愚全祐梵大和尚です。

祐梵は祐東の弟子で、増上寺で修行し、滝山極楽寺(八王子市)30世を勤めたのち、祐天寺に入院しました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

寺院

水戸藩を批判

天保13年(1842)、幕府は外国の圧力に対抗するために海防政策を諸藩に命じますが、水戸藩(茨城県)では、それに先駆けて天保7年(1836)から大砲の鋳造を始めていました。その際、鋳造に必要な金属材料の不足を補うため、寺院の梵鐘・濡仏(雨ざらしの状態で安置されている仏像)などを供出させました。

この年にはさらに水戸藩内のおよそ900の鐘・仏像などのうち、600近くが没収されたため、藩内の寺院は反発しました。特に水戸徳川家の位牌所である天台宗檀林の薬王院(同県水戸市)と、浄土宗檀林の瓜連常福寺(同県那珂市)などが激しく反発したところ、この態度を不服とした9代藩主徳川斉昭(天保元年「人物」参照)は翌年、位牌所としての指定を取りやめるなどの処罰を与えました。これに対し、薬王院・常福寺などは本山である上野寛永寺(台東区)や知恩院・増上寺に訴え出ました。寛永寺や増上寺は水戸藩を批判しましたが、斉昭は一歩も譲ろうとしませんでした。そのため幕府首脳や大奥にまで働き掛け、斉昭失脚(弘化元年「事件・風俗」参照)の一因になったと思われます。

参考文献
『茨城県の歴史』(長谷川伸三ほか、山川出版社、1997年)、『水戸市史』中巻3(水戸市史編さん委員会編、水戸市役所、1976年)

風俗

順天堂、開設

この年、佐藤泰然は佐倉藩(千葉県)5代藩主堀田正睦に招かれ、城下東方の本町に蘭方医学の塾および病院として順天堂を開設しました。

その当時、大変恐れられていた病気が天然痘(嘉永2年「解説」参照)です。泰然はこの病気の予防となる種痘(嘉永2年「事件」参照)の実施を進めようとしましたが、なかなか普及しませんでした。しかし、天然痘が流行したときに種痘を受けていた者が感染しなかったことから種痘の効果が理解され、しだいに広まっていきました。

外科医として優れた腕を持つ泰然は、日本で初めての膀胱穿刺や乳癌の手術を行いました。また、アメリカ人宣教師で医者のジェームス・ヘボンが治療法がないと言った卵巣水腫の手術さえも、10年も前に麻酔なしで2回も成功させていたのです。順天堂に行けば病気が治るという評判を聞き、遠方からも多くの患者が来るようになります。順天堂には日本各地から塾生が集まり、当時としてはかなり高度な医学を実地で学んでいました。その外科手術の様子は、順天堂の門人であった関寛斎が著した『順天堂外科実験』に詳細に記されています。こうして順天堂では、のちに明治時代の医学界をリードする人材が育成されました。

特に、泰然の養子となった尚中は、長崎に遊学しオランダ人軍医ヨハネス・ポンペから西洋医学を学びます。遊学を終え佐倉に戻ると、佐倉養生所を開設し、最新の西洋医法により病人やけが人の治療にあたりました。養生所に来た病人を尚中らは無料で診察し、薬代も無料としました。明治に入ると尚中は大学大博士に任ぜられ、大学東校(現、東京大学)で医学教育にあたりました。大学東校を辞職したのちは、東京に私立病院順天堂医院を開設します。この医院が現在の学校法人順天堂です。

参考文献
『蘭医佐藤泰然―その生涯とその一族門流―』(村上一郎、房総郷土研究会、1941年)、『佐藤泰然』(佐倉市教育委員会編集・発行、1991年)、『国史大辞典』

出版

河原崎座の興行、好評

5月、猿若町(台東区)に移転した河原崎座が興行を開始しました。『仮名手本忠臣蔵』と『菅原伝授手習鑑』が上演され、回り舞台と、3代目尾上菊五郎の工夫した大仕掛けが評判を呼びました。菊五郎は『忠臣蔵』の勘平の役で鉄砲を使ったことを幕府からとがめられましたが、これは紙で張り抜きして作ったものと説明し、事なきを得ました。

参考文献
『藤岡屋日記』2(近世庶民生活史料、藤岡屋由蔵、鈴木棠三ほか編、三一書房、1988年)、『日本演劇史年表』

人物

為永春水 寛政2年(1790)~天保14年(1843)

為永春水の前半生は謎のベールに包まれています。春水自らが後年語ったところによると、姓は鷦鷯(佐々木の当て字と思われる)、名は貞高、通称は長次郎と言ったようですが、父母や生まれた場所もわかりません。ただ、滝亭鯉丈を「家兄」と呼んでいることなどから、江戸の町家の生まれであろうと考えられています。また、幼少期から文学が好きで、なかでも仮名物語に没頭するあまり、ひどい近眼になったという逸話が伝わっています。

春水を資料の中にはっきりと確認できるようになるのは、31歳頃に為永正輔の名で講釈師として寄席に出た、文政3年(1820)からです。世話講釈が得意だったとされますが、文政9年(1826)には「昨烏は講釈師の為永とよばれしも、今兎は編文漢の楚満人と改め」と言っていることから、講釈師としての活躍期間は短かったようです。しかし、当時の寄席界は娯楽性を強めており、特に落語は最盛期を迎えつつありました。のちに春水が得意とした会話文で構成される情理の世界は、こうした落語話術の影響を受けたものでしょう。

春水は講釈師を続ける一方で、書肆(書物の出版・販売を行う店)青林堂を経営していました。文政4年(1821)には式亭三馬(文化3年「人物」参照)の門人となって、楚満人の名で三馬とともに『明烏後正夢』を著したり、柳亭種彦(文政12年「人物」参照)の助手なども務めました。門人や友人たちとの合作ばかりではありましたが、次々と人情本の出版に携わり、戯作者としての地位も一応確立させていたようです。しかし、文政12年(1829)3月に神田(千代田区)で起きた火事で青林堂を失うと、門人たちは春水のもとから去っていきました。

一度は失意の底に沈んだ春水ではありましたが、奮起して苦心を重ね、天保3年(1832)には自分1人の力で書いた作品を発表します。これが春水を一躍人気作家へと押し上げることになる『春色梅児誉美』(天保3年「出版・芸能」参照)です。甘美な会話で構成される男女の逢瀬の物語が読者から熱狂的な歓迎を受けたため、翌年には続編を出版し、その後も多くの作品を世に送り出していくことになりました。

「人情本元祖」ともてはやされ、天保の文壇は春水の独壇場に見えましたが、天保の改革が始まると、北町奉行所に呼び出されて尋問される日が続きました。やがて、その作品が風俗を乱すとの理由から、春水は手鎖50日の刑に処せられます(天保13年「事件・風俗」参照)。このことがよほどショックだったと見え、天保14年12月22日に亡くなりました。54歳でした。

春水の作品は大衆心理に迎合したもので思想性には乏しいのですが、明治に入るとその風俗描写の巧みさが坪内逍遙らの支持を得て、硯友社(明治18年「解説」参照)文学に受け継がれることとなります。

参考文献
『春色梅児誉美』(日本古典文学大系64、中村幸彦校注、岩波書店、1962年)、『為永春水の研究』(神保五弥、白日社、1964年)、『国史大辞典』
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