3月20日、二宮尊徳が祐天寺に参詣しました。この頃の尊徳は江戸西久保(港区)の旗本宇津家の別邸に滞在していましたが、この日はまず目黒不動(目黒区)、それから祐天寺、渋谷金五八幡(渋谷区の金王八幡のことか)、青山教学院(目青不動。現在は世田谷区に移転)に参詣しました。
5月1日、有職故実家の松岡辰方が77歳で逝去し、祐天寺に葬られました。
法号は礼本院倹誉巍徳中和居士です。
松岡家は、久留米藩(福岡県)江戸藩邸の老女であった松岡が始祖です。松岡は8代藩主有馬頼貴の正室である養源院(安永4年「祐天寺」・「説明」参照)のお附きでした。7代藩主頼.が松岡の長年の忠勤に報いるため、長州藩(山口県)藩士酒井忠良の次男である辰方を松岡の養子とし、松岡姓を与えて士族に加えました。辰方は松岡の養子となったことをきっかけに、祐天寺への信仰を受け継いだと思われます。
辰方は塙保己一の和学講談所に入り、『群書類従』の編纂事業に携わりました。伊勢貞春や高倉永雅に師事して自ら「松岡流」と称し、有職故実の大家となりました。著書には『装束織文図会』『皇統略図』など多数あります。辰方の学問は子の行義、孫の明義へと受け継がれていきます。
5月上旬に祐梵は、増上寺を通して寺社奉行の戸田忠温に、祐天寺境内の作事絵図を提出しました。
絵図には天英院の仏殿が庫裏の後方に描かれ、現在の寺務棟の奥辺りに位置していたことがわかります。また、表門は冠木門(2本の柱の上部に横木を貫き渡し、上に屋根を掛けた門)でした。
8月2日、岩槻浄国寺(さいたま市岩槻区)41世の祐玉が遷化しました。
法号は潤蓮社廉誉上人生阿愚掬祐玉大和尚です。
祐玉は祐天寺9世祐東の弟子で、この年の6月26日に浄国寺住職を拝命したばかりでした。祐天寺に祐東と合祀された墓があります。
8月22日、祐良が遷化しました。
法号は観蓮社行誉上人即阿心善祐良和尚です。
祐良は順良(知恩院69世)の弟子で、初めは順常と称していました。順良と同じく江州田上郡羽栗村(滋賀県大津市)の生まれで、順良の親縁にあたります。知恩院に祐天寺10世祐麟と合祀された墓があります(嘉永6年「祐天寺」参照)
8月24日、祐天上人名号軸が一位様から永世什物として広島唯称庵に奉納されました。「一位様」とは、11代将軍家斉の御台所の茂姫〔薩摩藩(鹿児島県)8代藩主島津重豪の息女〕のことと思われます。唯称庵は昭和24年(1949)に廃庵となり、什物は昭和51年(1976)に無量光寺(和歌山県和歌山市)に引き継がれました。
9月、西国三十三観音霊場第23番札所の箕面勝尾寺(大阪府箕面市)境内に、祐瑞(嘉永5年「祐天寺」参照)名号付き道しるべ供養塔が建立されました。四国二十一度行者(四国遍路を21度参拝して回った行者のこと。
遍路の元祖とされる河野衛門三郎が21度回ったことに因む)である丹州何鹿郡私市邑(京都府福知山市・綾部市)の大嶋弥三郎の菩提を弔うために建立された旨が、塔の側面に刻まれています。正面には「みのふたきごし中山寺へ」と刻まれており、次の第24番札所の中山寺へ向かう方角を指しています。
11月、高野山奥の院(和歌山県伊都郡)へと続く参道に建つ「宝井其角の句碑」の左側に、祐天名号石塔が建立されました。施主は勢州津(三重県津市)の田中治助左衛門です。右側面に「為蓮誉宗如法子菩提建之」、左側面に「家門先祖代々三界萬霊一切法界」と彫られていることから、蓮誉宗如法子と先祖の供養のために建てられたものとわかります。
12月23日、祐梵が52歳で遷化しました。法号は常蓮社修誉上人一心行阿愚全祐梵大和尚です。
祐梵は祐東の弟子で、増上寺で修行し、滝山極楽寺(八王子市)30世を勤めたのち、祐天寺に入院しました。