明顕山 祐天寺

年表

天保13年(1842年)

祐天上人

鏸子、誕生

5月23日、土佐藩(高知県)山内家に女子が誕生し、のちにこの女子のために地蔵菩薩坐像付きの石塔が、祐天寺に建立されました。

この女子は、13代藩主豊熈の息女の鏸子と考えられます。鏸子の母は側室の平岡民(明治6年「祐天寺」参照)です。鏸子は臼杵藩(大分県)14代藩主稲葉観通に嫁ぎますが、元治元年(1864)4月28日に23歳で早逝しました。

参考文献
山内.子石塔、『山内家 御当家御系譜』(『皆山集』3、平尾道雄ほか編、高知県立図書館、1976年)

『西條誌』完成

『西條誌』は、伊予国西条藩(愛媛県)の朱子学者日野和煦が、12代藩主松平頼学の命を受けて編纂した地誌です。西条藩領内の庄屋から差し出された資料を基に天保7年(1836)から実地調査を開始し、7年の歳月を経て、この年の5月に全20巻として完成しました。

『西條誌』に記載される町村は約70か町村に及びます。その中の1村、大町村の庄屋格であった作十郎家には、祐天上人の弥陀・観音・勢至の名号1幅が家宝として伝えられており、天保6年(1835)に西条藩へ初入部した頼学が3度立ち寄ったと記されています。

参考文献
『西条誌』(矢野益治、新居浜郷土史談会、1982年)

『五重本末講義』書写

秋、祐麟は金戒光明寺(京都市左京区)49世原澄作の『五重本末講義』を書写し、原澄の27回忌にあたる弘化3年(1846)に浄書しました。「附言」の中で「この『五重本末講義』こそ実に古今を一洗し、正義を精選した書である」と、高く評価しています。

参考文献
『五重本末講義』(金田戒足編、土川勧学宗学興隆会、1931年)

寺院

密賢、増上寺に住す

8月17日、小石川伝通院(文京区)56世密賢が台命により増上寺64世となり、大僧正に任じられました。在住中の弘化元年(1844)2月12日、崇源院殿(2代将軍秀忠の御台所)・泰明院殿(11代将軍家斉の息女)などの霊屋の修理を終えました。同年6月2日に密賢は隠退し、翌3日に遷化しました。

参考文献
『大本山増上寺史』本文編

風俗

「出版取締令」

6月4日、幕府が出版物に対する取締まりを強化しました。人情本・好色本は禁止、その他の本も出版前に板木の検閲を行うなど大変厳しい内容です。
さっそく槍玉に挙げられたのはベストセラー作家の柳亭種彦(文政12年「人物」参照)と為永春水(天保14年「人物」参照)でした。

種彦の『偐紫田舎源氏』(文政12年「出版・芸能」参照)が11代将軍家斉の大奥を揶揄しているとの理由から発売禁止・絶版処分。春水は『春色梅児誉美』(天保3年「出版・芸能」参照)などの人情本が男女の恋愛を描いていて風俗を乱すとして、手鎖50日の刑に処せられただけでなく、10月には著書絶版、板木も没収のうえ焼却されています。春水は人情本元祖として名を馳せていたため、これらの処分は見せしめの意味もあったのでしょう。

種彦はこの事件の翌月に亡くなり、巷では自殺したのではないかと噂されました。春水のほうは作風を変えて『意見早引大善節用』などの教訓絵本を著すなどしましたが、ほどなく心労がもとでやはり病没しました。

この年には出版物のほか、神事祭礼での見世物や芝居も禁止されました。お触れの内容は、山王御祭礼で桟敷に金屏風を立てることや夜店での酒盛りについてなど細部にまで及んでいます。あいつぐ庶民娯楽の取締まり強化に、人々の不満は日に日に高まっていきました。


水戸偕楽園、開園

7月、水戸藩(茨城県)9代藩主徳川斉昭(天保元年「人物」参照)により造られた庭園が開園されました。園内には数千本の梅のほか萩や五葉松などの木々が植えられ、そのほぼ中心に柿葺2階建てで土廂が瀟洒な好文亭があります。水戸城の南西にあたる常盤村(同県水戸市)の七面山を切り開いて造られた庭園からは西に筑波山、東に千波沼が望めます。斉昭はこの庭園を「衆と偕に楽しむ」という意味で「偕楽園」と命名しました。

この偕楽園造園の基となる計画は、斉昭が就藩した天保4年(1833)からあったと言います。しかし、このときはまだ造園という構想ではなく、軍備としての梅干しを作るために梅の木を多く植樹しようというものでした。それがやがて、学校としての弘道館の対となる、娯楽施設としての庭園を造るという構想に変わっていったのです。

こうして公開された偕楽園には、水戸藩士であれば毎月3、8、18、23日に自由に入ることができ、さらに園内で雅興を催すことも自由でした。また、庶民の中でも僧侶などの宗教関係者や詩歌、茶道、書画などをたしなむ者ならば3、8日に入園が許されていました。ただし、男女同伴は許されず、女性の入園は13、18日のみとされ、他国の者の入園も禁じられました。江戸時代後期には、宗教関係者だけでなく一般庶民にも入園が許され、詩歌や茶の会などが園内でたびたび行われたと言います。

参考文献
「天保の改革と為永春水」(上保国良、『歴史学論文集』、日本大学史学科創立五十周年記念事業実行委員会編集・発行、1978年)、『愛に生きた 江戸の女 明治の女』(細窪孝、蕗薹書房、2000年)、『水戸市史』中巻3(水戸市史編さん委員会編、水戸市役所、1976年)、『水戸藩史料』別記上(吉川弘文館編集・発行、1970年)、『日本全史』

出版

『家屋雑考』

会津藩(福島県)藩士沢田名垂による住まいの歴史書『家屋雑考』が刊行されました。

江戸時代には『古事記』や『日本書紀』はもちろんのこと、平安文学などの古典にも学者たちの関心が集まり、活発な古典研究が行われました。しかし、家造りに関する書物は少なく、平安時代の貴族たちの住まいや生活について十分に理解されていたわけではありませんでした。そこで名垂は、家造りの起こりから、公家や武家の家造りまでを解説し、古典愛好家たちの座右の書となることを目的に本書を著したそうです。

平安時代から江戸時代後期まで、家造りの方法はさまざまな変遷をたどってきました。その中で名垂が、平安時代の「寝殿造」と桃山時代以降の「書院造」を様式として認め、この2つを対比させて住宅史を把握したことは、現在の建築学にも影響を与えています。

また、本書の魅力はその挿絵にありました。特に寝殿造の挿絵は、大正14年(1925)に出版された関根正直の『増補宮殿調度図解』のような建築関係の書籍ばかりか、近年まで日本史や古典の教科書にも掲載され、平安貴族の生活を知るうえで欠くことのできない貴重な資料として長く活用されてきました。

参考文献
『改訂増補 故実叢書』25(故実叢書編集部編、明治図書出版、1993年)、『日本古典文学大辞典』

人物

高島秋帆 寛政10年(1798)~慶応2年(1866)

高島流砲術の創始者として日本の軍事近代化に大きな足跡を残した高島秋帆は、高島茂紀の3男として長崎に生まれました。高島家は代々長崎町年寄を務め、茂紀はちょうど10代目となります。秋帆が7歳のときにロシア使節ニコライ・レザノフが日本との通商を求めて長崎に来航し、また11歳のときにはフェートン号事件(文化5年「事件・風俗」参照)が起きており、幼い秋帆は騒然とした国内の世情と西洋の国々の進んだ技術を肌で感じたことでしょう。やがて父が出島(長崎県長崎市)砲台の受持ちとなったことから秋帆も荻野流の砲術を学びますが、西洋の砲術と比べてあまりにも貧弱であることに愕然とします。秋帆は日本における砲術の向上のため、出島のオランダ人から西洋砲術を学ぶほか、独自に西洋の兵学書を読み、西洋武器を輸入して実際に修練するなど、西洋の軍事技術を修得していきました。これらの知識の集大成である高島流砲術は、秋帆が37、8歳の頃に完成させたと言います。

それからの秋帆は佐賀(佐賀県)や肥後(熊本県)、薩摩(鹿児島県)の諸藩にこの砲術を教授し、自らモルチール砲(臼砲)を鋳造するなど、高島流砲術の普及に努めました。また、モリソン号事件(天保8年「事件・風俗」参照)での幕府の対応を憂慮し、日本の海防政策に西洋砲術を採用すべきだという意見書「天保上申」を幕府へ提出しています。この意見書が幕府に採り上げられ、秋帆は江戸徳丸原(板橋区)にて西洋砲術の演習を行うよう命じられました(天保11年「事件・風俗」参照)。

日本で初めての西洋砲術演習となったこの日、幕吏や諸侯などのほかにも大勢の見物人が集まったと言います。大砲の射撃には1発の不発弾もなく、銃隊の操作も円滑で、非常に見事な演習となりました。幕府は秋帆に賞辞と銀200枚を下賜したほか、大砲2門を500両で買い上げて西洋砲術を採用することを決定したのです。

しかし、西洋砲術への批判の声もありました。特に幕府内部の守旧派には蘭学嫌いの者が多く、なかでも鳥居耀蔵(嘉永4年「人物」参照)はその筆頭で、秋帆の砲術を苦々しく思っていました。その折、元長崎会所の下役人で秋帆に恨みを持っている人物から秋帆が謀反を企てているという告発を受けた耀蔵は、秋帆の逮捕を決行したのです。しかし、江戸での秋帆の調べは遅々として進まず、やがて老中水野忠邦(天保10年「人物」参照)の失脚とともに耀蔵が罷免され、秋帆は再度吟味を受けることとなります。そこでは秋帆に謀反の計画などないことがわかり、息子の嫁に身分違いの者を迎えたという別の罪で中追放となったのです。秋帆が49歳のときでした。

その後、ペリー来航(嘉永6年「事件・風俗」参照)などで世情が変化し、秋帆の才能が求められたためか、嘉永6年(1853)に赦免されました。江川英龍(弘化3年「人物」参照)のもとに身を寄せた秋帆は、調練場で行われている教練を見ることを楽しみとしていたそうです。また、大砲鋳造や砲術教授に従事し、安政4年(1857)には幕府直轄の講武所にて砲術師範役となりました。しかし、現職中に病没。享年69歳でした。

参考文献
『高島秋帆』(人物叢書、有馬成甫、吉川弘文館、1958年)、『評伝高島秋帆』(石山滋夫、葦書房、1986年)、『国史大辞典』
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