明顕山 祐天寺

年表

天保12年(1841年)

祐天上人

家斉、薨去

閏正月晦日、11代将軍家斉(天明7年「人物」参照)が薨去し、祐天寺に位牌が納められました。位牌に記された法号は文恭院殿大相国贈正一位公です。

参考文献
徳川家斉位牌、『徳川諸家系譜』1

豊姫、葬送

5月22日、土佐藩(高知県)12代藩主山内豊資の正室の豊姫が43歳で逝去しました。法号は祐仙院殿雲峰霊彩大姉です。

豊姫の棺は6月4日卯の刻(午前6時)に鍛冶橋(千代田区)の土佐藩邸を出棺し、祐天寺に葬られました。葬儀は山内家菩提寺の貝塚青松寺(港区)で6日から8日まで、祐天寺では9日、10日に営まれました。また四十九日の追福法要は青松寺では7月18日に尊牌前で、祐天寺では19日に尊牌前と廟所でそれぞれ営まれました。

豊姫は寛政11年(1799)5月23日に岡山藩(岡山県)9代藩主池田斉政の長女として生まれ、文化9年(1812)9月28日に豊資のもとへ嫁ぎました。性格は穏やかで慈悲深く、和歌をこよなく愛した女性でした。豊資との間に子どもは生まれませんでしたが、のちに13代藩主となる豊熈をかわいがり、また豊熈も豊姫を実母のように慕っていたそうです。豊熈とその正室祝姫〔薩摩藩(鹿児島県)10代藩主島津斉興の息女〕との間に生まれた嫡子が早世した際に、その子どもの法号が祐天寺に納められたのも豊姫の影響と考えられます。

参考文献
祐仙院墓誌銘板、『本堂過去霊名簿』、『祐仙院様御追福御法事留』(池田家文庫藩政資料マイクロ版集成、丸善、1993年)、『豊熈公御遺事』(高知県立図書館蔵)、『皆山集』3(平尾道雄ほか編、高知県立図書館、1976年)

地蔵菩薩石像、建立

5月、土佐藩の豊姫が、祐天寺に地蔵菩薩石像を建立しました。祐梵は、その台石に自らの名号とともに豊姫の功徳を讃える次の内容を刻ませました。

「高知城の北方8里に聳える白髪山の古樹には秘神が宿り、もしその枝葉を傷つければ必ず山神の報いを受けると恐れられていました。しかし、天保9年(1838)3月10日の早朝、江戸城西丸が焼失し、西丸造営の木材を白髪山に求めるよう主命が下りました。誰もが山神の霊とその報復を恐れ苦慮していると、地蔵像を建立して山霊を慰霊すればこの危難を避けられるだろうと言う者がありました。これを聞いた豊姫は、祐天寺を白髪山に見立てて地蔵菩薩石像を建立し、山神の霊が幽冥から脱せられるよう祈願しました」。

参考文献
地蔵菩薩石像、「祐天寺墓地の地蔵像二基」(中島正伍、『THE祐天寺』21、1992年)

斉省、逝去

6月4日、川越藩(埼玉県)の松平斉省が逝去し、祐天寺に位牌と祠堂金50両が納められました。法号は隆章院殿普協誼礼大居士です。斉省は将軍家斉の24男として生まれ、文政10年(1827)に川越藩16代藩主斉典の養子となりますが、家督を相続する前に病没してしまいました。

また、位牌には斉省の法号とともに正室睿姫の法名(凉叢院殿祐誉普明睿礼大姉)が朱で書かれており、睿姫は斉省の逝去に伴って祐天寺で逆修を受けたものと思われます。睿姫は岡山藩9代藩主池田斉政の息女で、豊姫(前項、参照)の妹です。

参考文献
松平斉省位牌、『池田家履歴略記』(吉田徳太郎編集・発行、1963年)、『徳川諸家系譜』1

森川君故紙塚、建立

6月上旬、祐天寺に森川政苗の故紙塚が建立されました。故紙とは古い紙のことで、政苗が公務の合間に書きとめた日誌を指しています。この塚は政苗の遺した故紙を祀るため、政苗の娘婿の政武によって建立されました。碑文には以下のようにあります。

「森川政苗は牧野氏の生まれでしたが、森川家に婿養子に入り、五郎右衛門と称していました。顔は大きく優れ、声は高く朗らかで心地良く響きました。公務の合間には必ず机に向かって仕事の様子などを記し、公務で失敗することはありませんでした。友人や知り合いを大切にして、神仏への帰依も篤い人物でした。政苗の義父の政方は有能な商人で巨万の富を築き、御用達となりました。政苗はそれを引き継ぎ、苗字帯刀を許され、白金と土地もたまわりました。天保11年(1840)6月28日、病により64歳で亡くなりました。政苗の娘婿の政武は、義父政苗の故紙を祐天寺本堂のそばに埋め、その上に地蔵菩薩の銅像を安置しました」。

その後、時期はわかりませんが銅製の地蔵菩薩像は失われ、現在は代わりに六十六部供養塔の地蔵菩薩石像が祀られています。

参考文献
森川君故紙塚

下馬札、修復

9月、目黒筋へ将軍家慶(天保8年「人物」参照)の御成が決まり、祐天寺に御膳所を仰せ付けると、御鳥見在宅の柳沢善之助より上目黒名主の加藤啓次郎および中目黒名主の金吾両人へ沙汰がありました。

同月29日、御丸御場掛衆と小普請方が立ち会い見分のうえ、小普請方の永坂果之進より正式に御成御膳所を仰せ付けられました。

10月1日に祐梵は、寺社奉行の戸田忠温へ、御成の前に表裏両門の朽ちている下馬札の柱を取り替えてくれるよう、増上寺役者の添簡とともに願書を提出しました。願書は役僧代の信潤が持参し、役人の岸上勘三郎が預かりました。

しかし、沙汰がないまま同月4日の御成を迎えました。

同月12日の四つ時(午前10時)頃、作事仮役の内田記十郎と見分役の松野東助が来寺し、即刻柱が取り替えられ、九つ時(正午)頃に引き渡されました。前例により本尊を開帳するように促され、応じました。

翌13日、寺社奉行と増上寺役所へ下馬札の柱の取替えが済んだ旨を届け出ました。

参考文献
『寺録撮要』5

正授院に名号石塔、建立

11月、尾道正授院(広島県尾道市。元禄15年・宝永3年・正徳3年「祐天上人」、寛政元年「祐天寺」参照)の本堂前に、祐天上人名号石塔が建立されました。台石には発願主の亀丘と松浦のほか、石工の丈助の名前が刻まれています。

参考文献
祐天上人名号石塔(正授院)

寺院

上野大仏殿より出火

11月、上野大仏殿より出火し、大仏が焼損し堂宇が焼亡しました。

この大仏の創建は寛永8年(1631)で、越後国(新潟県)村上城主堀直寄から寄進された丈六(高さ約4.85メートル)の泥製のものでした。正保4年(1647)の大地震で大破しますが、明暦・万治年間(1655~60)に木食浄雲により、7メートルの唐銅大仏が鋳造されました。当時は露仏(雨ざらしの状態で安置されている仏像)でしたが、元禄年間(1688~1703)に公弁法親王の命により大仏殿が建てられました。

火災後の天保14年(1843)に大仏の新鋳と大仏殿の再建が行われますが、以後もたびたび震災に見舞われます。上野公園(台東区)開園時には仏殿が取り払われ、関東大震災で大仏の首が落ちたのを機に仏体も取り払われ、仏頭のみが寛永寺に保存されました。

現在は、大仏殿跡地に顔面部のみがレリーフとして安置されています。

参考文献
『台東区史』上巻(東京都台東区役所編集・発行、1955年)、『台東区の歴史散歩 うえの篇』(台東区教育委員会編集・発行、1976年)、『武江年表』

事件

天保の改革

5月15日、老中水野忠邦(天保10年「人物」参照)は享保・寛政の改革への復古を宣言し、質素倹約と綱紀粛正を柱とする天保の改革をスタートさせました。江戸3大改革の最後です。

将軍家慶自身が改革への強い意識を持っていたことから、家斉が薨去するや、家斉の側近を排除して老中・若年寄に改革派を配するとともに、遠山金四郎景元(弘化2年「人物」参照)、鳥居耀蔵(嘉永4年「人物」参照)、江川英龍(弘化3年「人物」参照)、川路聖謨、羽倉外記など忠邦の息の掛かった者で周りを固めました。

改革を進めるにあたって忠邦が家慶に差し出した意見書には「厳重な奢侈取締りによって不景気に陥り、たとえ商人たちが一家離散しても構わない」と書かれているのですが、まさにその言葉どおり、空前の厳しさをもってぜいたくの取締まりや物価引下げ策が実施されました。衣類や装飾品のみならず手の込んだ料理や菓子、子どもの玩具に至るまで矢継ぎ早に禁令が出され、浄瑠璃や落語、風俗を乱す出版物、錦絵、祭礼に付き物の見世物や芝居まで、ことごとく庶民の楽しみは奪われていきます。こうして出された禁令は270余りにも達し、「町人を 犬のようにか思し召し 何もくれずに おおふれ おおふれ(尾を振れ、お触れ)」と詠われたほどでした。

さらに、同心が客を装って禁制品の販売をしつこく迫る「買試し」や、人の集まる場所でわざと幕政批判をして、相づちを打った者をあとで検挙するなど、幕府への点数稼ぎのために人々を陥れるあくどい役人もはびこり、市中は混乱の一途をたどります。やがて、ぜいたく品の取締りだけでは物価が下がらないとわかると、株仲間による価格統制がその原因とされ株仲間が解散させられました。また、江戸の治安と農村人口を回復させるために、出稼ぎ人を農村へ返す「人返しの法」も実施されますが効果はありませんでした。

一方、将軍の権威回復と幕府の体制強化のため、67年振りとなる日光社参を行い、20万人とも30万人とも言われる大規模な行列により、将軍の権威を天下に知らしめることに成功します。対外政策としては「異国船打払令」(文政8年「事件・風俗」参照)を撤回して、漂着船には薪と水を与える「薪水給与令」を出し、諸藩へも軍備強化に努めるよう命じました。また万が一、外国船が江戸湾を占拠した場合に備えて、要路確保のため印旛沼(千葉県北西部)の掘割工事を行うなど、その着眼点には先見の明があったと言えます。しかし、天保の改革もここまででした。

天保14年(1843)9月、防衛対策の一環として江戸・大坂10里四方の諸大名・旗本の領地を幕府直轄とする「上知令」には猛烈な反発が起きます。領地を取り替えられる大名や旗本はもとより、借金の踏み倒しを恐れる町人や、年貢の取立てが厳しくなると考えた農民までもが反対したのです。「水野の三羽烏」とまで言われた腹心の耀蔵が上知令反対派の老中土井利位らと結託し、御三家の紀州家も巻き込んで将軍家慶を説き伏せたことから、翌閏9月7日に上知令は撤回され、13日に忠邦は老中を罷免されました。

天保の改革が失敗に終わったのは、その内容があまりにも事細かく厳しすぎたということもありますが、ただ押さえ込むだけでは人民をコントロールできなくなった幕府の弱体化こそが真の原因と言えるでしょう。

参考文献
『近世の三大改革』(日本史リブレット48、藤田覚、山川出版社、2002年)、『幕末 乱世の群像』(吉田常吉、吉川弘文館、1996年)、『新版 史跡でつづる東京の歴史』下(尾河直太郎、一声社、2000年)、『日本全史』

芸能

『絵本百物語』

桃山人の奇談集『絵本百物語』5巻5冊が刊行されました。竹原春泉の描くさまざまな化け物に対して、桃山人が簡単に解説するという形で構成されています。

祐天上人が得脱したと伝えられる「かさね」についても絵付きの解説が載っています。本書は妖怪画集の傑作とされていますが、人間の醜い心を諷刺した書とも言えます。

参考文献
『竹原春泉 絵本百物語―桃山人夜話―』(多田克己編、国書刊行会、1997年)

人物

渡辺崋山 寛政5年(1793)~天保12年(1841)

渡辺崋山は三河国田原藩(愛知県)の家臣渡辺定通の長男として、江戸の田原藩藩邸で生まれました。名を定静、通称を登と言います。諸藩が財政難に悩む中、小藩の田原藩は特に貧窮しており、上士層に属する崋山の家でも家計はいつも火の車でした。そのため崋山は絵画を学び、凧や燈籠などに絵を描いて得た収入で家計を助けていました。さらに、8歳のときから藩務に就いていたため、崋山の生活は大変忙しいものだったようです。しかし、崋山にとって絵画は単なる内職にとどまることはなく、やがて谷文晁(天保11年「人物」参照)に才能を認められ、20代半ば頃には画壇でも名が通るようになっていました。崋山の代表作の1つ『一掃百態図』は26歳のときの作品で、鋭く速い筆でユーモラスでありながら品の良さを感じさせる画図です。

文政7年(1824)に父の死により家督を継いだ崋山は、天保3年(1832)に年寄役(家老)末席と同時に海岸掛となり、藩政とともに藩の海防を担います。これをきっかけとして蘭学の研究を始めた崋山ですが、蘭語の知識がないうえ藩務で多忙だったため、高野長英(天保7年「人物」参照)や小関三英などの蘭学者に翻訳させた蘭書を基にして、さまざまな新しい知識を取り入れていきました。こうして世界の現状を知るようになった崋山は、日本の置かれている立場が危ういものであることを痛感します。

さらに天保8年(1837)に起きたモリソン号事件(天保8年「事件・風俗」参照)に対する幕府の外交姿勢に危機感を募らせた崋山は、天保9年(1838)に書き上げた『慎機論』の中で幕府を痛烈に批判しました。この書は弾圧を警戒して公表しなかったのですが、天保10年(1839)の「蛮社の獄」(天保10年「事件・風俗」参照)で逮捕された際に役人に発見され、華山は幕政批判の罪で国許蟄居を命じられます。

蟄居生活では好きな絵を思う存分に描けたものの、江戸育ちの崋山にとって国許暮らしは鬱々として寂しいものでした。また、崋山に与えられた五人半扶持の手当てでは、生活することすら困難だったと言われています。門人の福田半香は崋山の困窮した生活を救おうと書画会を開催しましたが、謹慎の身でありながら不届な行為であるとして、幕府から藩主に対し叱責が下るという噂が立ち、これを苦にした崋山は藩主へ迷惑を掛けないようにと自ら命を絶ったのです。崋山49歳の秋のことでした。

参考文献
『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』(日本思想大系55、佐藤昌介ほか校注、岩波書店、1971年)、『蛮社の獄』(芳賀登、秀英出版、1970年)、『国史大辞典』
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