明顕山 祐天寺

年表

天保11年(1840年)

祐天上人

楽宮、逝去

正月11日(公には24日)、将軍家慶(天保8年「人物」参照)の御台所の楽宮が逝去し、祐天寺に位牌が納められました。法号は浄観院殿贈従一位慈門妙信大夫人です。

楽宮は有栖川宮織仁親王の息女で、文化元年(1804)に江戸へ下向し、同6年(1809)に婚礼の式を挙げ、5人の子どもを授かりましたが、いずれも早世または流産しました。祐天寺には流産した子の明幻院殿と浄邦院殿(天保元年「祐天寺」参照)の墓があります。

また祐天寺には、於さま(天保6年「祐天寺」参照)や園邑(義園院戒誉法光正順法尼)、堀川(増立院殿馨誉蓮香清心法尼)、そして名は不明ですが楽宮の祐筆(書記)を務めた普観院證誉信月法尼など、楽宮附きの女中たちの法号も納められています。

参考文献
楽宮位牌、『天正過去帳』、『徳川諸家系譜』1・2

万釵姫、逝去

5月20日(公には23日)、将軍家慶の息女である万釵姫が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は瓊玉院殿鏡誉円浄大童女です。

また、万釵姫の弟の斉信院が嘉永2年(1849)9月27日に逝去し、祐天寺に位牌が納められました。法号は斉信院殿善住功徳大童子です。2人の母は側室の於きんの方(御小納戸の竹本正路の妹)です。

参考文献
『天正過去帳』、『徳川諸家系譜』1

順良名号石塔、建立

7月、松崎(静岡県賀茂郡)に順良名号石塔が建立されました。この年は順良が知恩院の住職を拝命して2年(天保9年「寺院」参照)、大僧正に任じられた翌年にあたります。石塔建立には、順良の弟子である松崎浄泉寺19世順海(のちの祐天寺13世祐興)が何らかの形で力を貸したものと考えられます。

参考文献
順良名号石塔(松崎海岸公園)

寺院

巨東、増上寺に住す

2月21日、百萬遍知恩寺(京都市左京区)57世巨東が台命により、増上寺63世となりました。在住中に増上寺諸霊屋の修理や、11代将軍家斉(天明7年「人物」参照)の病気平癒の祈祷などを行いました。また、徹定(明治7年「寺院」参照)を山内新谷の学寮主に任じて『梵網遺経疏』などを講じさせ、山内学寮を刷新しました。巨東は増上寺の改革を賞され、幕府から時服・巻物などを拝領しました。天保13年(1842)8月8日に隠退し、翌9日に遷化しました。

参考文献
『慎徳院殿御実紀』5(『続徳川実紀』2)、『大本山増上寺史』本文編、『浄土宗大辞典』

事件

庄内騒動

11月1日、幕府は庄内藩(山形県)、長岡藩(新潟県)、川越藩(埼玉県)に転封を命じました。「三方領地替」と言われ、庄内藩酒井家を7万石の長岡藩に、長岡藩牧野家を17万石の川越藩に、川越藩松平家を14万石の庄内藩に異動するというものです。

この発端は、松平家が11代将軍家斉の第24子斉省(天保12年「祐天寺」参照)を養子に迎えたことを機に、豊かな国に転封して財政難を切り抜けようと画策したことでした。川越藩は17万石ですから、14万石の庄内藩に転封しては一見収入が減るように見えますが、庄内藩の14万石というのは表高で、実際には21万石に匹敵するほどの実り豊かな国だったのです。酒井家の収入は今までの半分以下となり、そのためリストラされた家臣たちが反発し、藩内は大変な騒ぎとなりました。

庄内の領民たちにとっても他人事ではありませんでした。次に藩主となる松平家が財政難のため過酷な年貢の取り立てを行うとわかっていたからです。さっそく領民たちは「雖為百姓不事二君」の旗を掲げて立ち上がり、幕府へ何度も命懸けの直訴を試みました。そして、翌天保12年(1841)1月20日には老中たちへの駕籠訴(駕籠で通行する高官に直訴すること)を成功させたのです。領地替を命じられた当の大名よりも激しく抵抗する領民たちの姿は、近隣諸大名の同情を得て、やがては江戸町奉行を巻き込むほどの大きな動きとなりました。

7月12日、ついに幕府は再審議を余儀なくされ、三方領地替は中止されます。この事件は、たとえ幕府の命令であっても領民たちの反対の前にはもはや通用しないということを天下に暴露した形となり、幕府の権威は著しく失墜しました。

参考文献
『幕臣たちと技術立国』(佐々木譲、集英社、2006年)、『佐賀藩と反射炉』(長野暹、新日本出版社、2000年)、『山形県の歴史』(横山昭男ほか、山川出版社、1998年)、『小学館版 江戸時代新聞』(大石学編、小学館、2003年)、『日本全史』

風俗

西洋砲術の採用

9月、長崎町年寄の高島秋帆(天保13年「人物」参照)は、アヘン戦争(「解説」参照)勃発の情報を聞いて、幕府へ意見書を提出しました。意見書の中で秋帆は、軍備力の大差により清がイギリスに敗北するだろうと予想しています。そして外国の脅威に対抗するには砲術を整えることが一番の手段だとして、西洋砲術による警備を進言しました。以前から出島(長崎県長崎市)のオランダ人に欧州と清との軍備の差を聞いていた秋帆は、アヘン戦争に非常な危機感を覚えたのです。

この意見書を読んだ老中の水野忠邦は、鳥居耀蔵などに意見を求めました。西洋嫌いの耀蔵は、清の敗北の理由は砲術の差ではなく、イギリスが戦争慣れしていただけであり、そもそも西洋の火砲は日本の軍法にそぐわないとして、意見書に否定的でした。しかし、西洋火砲が諸藩にのみ伝わり幕府は知らないというのでは不都合があるため、採用したほうが良いと答申しています。これを聞いた忠邦は、秋帆に江戸で大砲の実演を行うことを命じました。

天保12年(1841)5月に豊島郡赤塚村の徳丸原(板橋区)で行われた演習を見た忠邦は、その威力を認めて大砲2門を買い上げ、直参の下曽根金三郎と韮山(静岡県伊豆の国市)代官の江川英龍(弘化3年「人物」参照)へ砲術の伝授を命じました。

参考文献
『幕臣たちと技術立国』(佐々木譲、集英社、2006年)、『佐賀藩と反射炉』(長野暹、新日本出版社、2000年)、『山形県の歴史』(横山昭男ほか、山川出版社、1998年)、『小学館版 江戸時代新聞』(大石学編、小学館、2003年)、『日本全史』

芸能

『勧進帳』初演

3月、河原崎座において歌舞伎十八番の1つである『勧進帳』が初演されました。兄の源頼朝から追われる身となった義経が、京から奥州へ落ち延びる途中の安宅の関(石川県)での物語です。

山伏を装い安宅の関を越えようとする義経一行。しかし、一行が山伏姿であるという情報を得ていた関所では、一行に疑いの目が向けられます。そこで弁慶は主君である義経を金剛杖で叩きますが、その弁慶の忠節に心を打たれた関守の富樫左衛門は、義経と知りつつ一行を通します。

弁慶が花道に引っ込む際の「飛び六方」が有名ですが、このときは5代目市川海老蔵(のちの7代目市川団十郎)が演じました。初代団十郎も元禄15年(1702)に『星合十二段』の中でこの場面を演じており、『勧進帳』は現在に至るまで歌舞伎の代表的演目として親しまれています。

参考文献
『日本演劇史年表』、『歌舞伎事典』

人物

谷文晁 宝暦13年(1763)~天保11年(1840)

民間画壇の雄、谷文晁は江戸下谷根岸(台東区)の生まれで、名も字も号も文晁と言い、通称は文五郎と言いました。父の麓谷は御三卿田安家の家臣で、名のある詩人でした。祖父の本教は民政家で、田安家の勘定方として財政を立て直した人物です。

文晁は12、3歳の頃から加藤文麗に師事します。文麗は木挽町(中央区)の狩野周信の門人で、狩野派の正統を伝える画家です。また、文晁は17、8歳頃からは渡辺玄対に師事しています。玄対は中山高陽の門人で、彼から南北折衷体・南蘋派・蕭散体の山水画を学びます。さらに、江戸南画(天明3年「解説」参照)確立の立役者の1人である鈴木芙蓉や、浙派風と洋風画に名をなした北山寒巌、丸山派を江戸に広めた渡辺南岳にも学び、幅広い画風を身に付けていきます。特に寒巌の北宋画から洋風画に及ぶ多面性の影響は大きかったようで、文晁も洋風画を試みます。

文晁の画風変遷は大きく2期に分けられます。寛政年間(1789~1800)の「寛政文晁」と、文化年間後半以降(1810~1840)の「烏文晁」の時代です。文晁の20代半ば前後の作品には「山東谷文晁」と署名しているものが多く、この時期を山東文晁時代と呼ぶこともあります。山東文晁期は中国画の実物や版本を通して学び試行錯誤していた時代ですが、寛政文晁期になると構図も安定し、画面に落ち着きも出てきます。この頃の代表作である「西遊画紀行帖」「公余探勝図」には洋風遠近法が駆使されています。また烏文晁期に入ると、墨のおもしろさを追求するような絵を描く一方で、大和絵や彩色画への関心も持ち続けています。

文晁は旅行家でもありました。30代で全国を旅しており、行ったことがない国は4、5か所しかなかったと言われています。寛政8年(1796)に木村蒹葭堂(宝暦12年「人物」参照)を訪ね交友を深めます。『蒹葭堂日記』にも文晁が何度か訪ねてきたことが書かれていることから考えると、兼葭堂の蔵品を展覧して見聞を広めたと考えて良いでしょう。四条派の祖である呉春(松村月渓)との交流もあり、寛政末年頃から四条派風描写も加わります。その後、長崎に遊学し清人の張秋谷らから文人画を学びます。

画人として活躍した文晁ですが、谷家が代々田安家の家臣であったため、天明8年(1788)には田安家に出仕し五人扶持を得ます。文化人でもあった松平定信(天明8年「人物」参照)に認められ、寛政4年(1792)に定信附きとなります。定信の海岸防備視察に随伴し伊豆・相模・安房・上総・下総を巡り、西洋画の遠近法や明暗法を用いて「公余探勝図」の挿絵を描きました。また、「集古十種」の編纂を命じられ、広瀬蒙斎、喜多武清らとともに西上し、畿内の古寺社の宝物の模写を行いました。さらに文晁は旅行体験を生かし、数多くの風景画も残しています。

文晁の画法は時代によって北宋画や南画の影響を受け、あるいは浮世絵の懐月堂派や鳥居派、西川派などの画に学ぶ一方、『石山寺縁起絵巻』に見られるように大和絵的手法もこなし、「木村蒹葭堂像」のような表情表現や性格描写に迫った肖像画も描くなど、その多才さは江戸文人画の大成者にふさわしいものです。

参考文献
『近代絵画の黎明―文晁/崋山と洋風画―』(「日本美術全集」第25巻、細野正信編、学習研究社、1979年)、『徳川三百年史』中巻(長田権次郎編、裳華房、1905年)、『谷文晁とその一門』(佐々木英理子編、板橋区立美術館、2007年)、『国史大辞典』
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