明顕山 祐天寺

年表

天保10年(1839年)

祐天上人

飛鳥井、逝去

1月16日、江戸城本丸大上臈御年寄の飛鳥井が逝去し、法号と祠堂金200両が祐天寺に納められました。法号は中正院殿慶誉順信成務真功大姉です。

飛鳥井は『本堂過去霊名簿』に平松特進前黄門平時行御女」とあり、平松権中納言時行の息女だとわかります。名を方子と言い、祐麟から逆修を受け、生前に法号を授かりました。天保4年(1833)の祐天上人坐像宮殿惣修補の際にはその施主として「大樹尊者家斉公御老女」という肩書きとともに名が記されています(天保4年「祐天寺」参照)。

参考文献
祐天上人坐像宮殿裏書、『本堂過去霊名簿』

斉温、逝去

3月20日(公には26日)、尾張藩(愛知県)11代藩主徳川斉温が逝去しました。法号は良恭院殿譲誉盛徳源僖大居士です。斉温は11代将軍家斉と側室お瑠璃の方の間に生まれましたが、文政5年(1822)に尾張藩10代藩主斉朝の養子となりました。

祐天寺には斉温ほか4霊を合祀した位牌が納められています。位牌の厨子には祐梵の名号が記されています。

合祀されているのは、家斉御台所の茂姫を母とする体門院殿(敦之助)と清雲院殿(寛政10年「祐天寺」参照)、そして側室於屋衛の方を母とする盛姫です。盛姫は佐賀藩(佐賀県)10代藩主鍋島直正に嫁し、弘化4年(1847)に逝去します。その法号は孝盛院殿天誉順和至善大姉です。

参考文献
徳川斉温ほか合祀位牌、『徳川諸家系譜』1・2

浄光院、逝去

8月28日、浄光院が逝去し、夫で壬生藩(栃木県)12代藩主の鳥居忠.と合祀された位牌が祐天寺に納められました。法号は浄光院殿円融妙体大姉です。

浄光院は高遠藩(長野県)8代藩主の内藤頼尚の息女で、名を恒子と言います。文政4年(1821)7月14日に忠.が亡くなると、浄光院は逆修を受け法号を授かりました。

参考文献
浄光院位牌、『本堂過去霊名簿』、『壬生町史』資料編近世(壬生町史編さん委員会編、壬生町、1986年)

三輪山、逝去

11月5日、田安家老女の三輪山が逝去して祐天寺に葬られ、法号と祠堂金20両が納められました。法号は聖隣院皎誉智月祐圓法尼です。

三輪山は田安家3代当主斉匡の御簾中裕宮(閑院宮美仁親王の息女)附きの老女です。三輪山の実父閑院宮諸太夫の浅井国房の法号が祐天寺に納められ、さらに三輪山自身が祐天寺で逆修を受けていることから、祐天寺に深い信仰を寄せていたことがわかります。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『過去霊簿』、『地下家伝』4(正宗敦夫編、日本古典全集刊行会、1938年)

寺院

法州、遷化

7月13日、大日比西円寺(山口県長門市)の法州が遷化しました。法州は稟蓮社承誉託阿還源と号し、大日比三師と呼ばれる名僧のうちの1人です。大日比三師とは江戸中期から幕末に掛けて、西円寺において念仏本位のわかりやすい布教を行い、大衆を引き付けた名僧、法岸、法州、法道の3人を言います。

法州は法岸に附いて剃髪、日課念仏3万遍を誓い、宗学を学びました。そして、檀林の浅草幡随院(現在は小金井市に移転)で五重、宗戒両脈、布薩戒を相承し、その後は京都、大坂、江戸を往来して人々を教化するという志を立て、法岸の許しを得て、17年間各地で弘法に努めました。

寛政9年(1797)に香衣の綸旨(香衣を着けることが許されること)を拝し、豊岡来迎寺(兵庫県豊岡市)、生玉大乗寺(大阪市天王寺区)などを歴住しました。文化9年(1812)に法岸の命により西円寺を継ぎ、以後は周防・長門(山口県)から出ることなく、両国を中心とした教化に努めました。

住職を退いたあとも法州は、日課5万遍のうえに3万、4万を超える日課念仏を課し、75年の生涯を終えるまで念仏精進と教化に努めました。著書は『選択集講説』をはじめ30数部があります。

参考文献
「法洲和尚行業記」(『大日比三師伝』、大日比三師講説発行所編集・発行、1909年)

事件

蛮社の獄

5月14日、幕政批判などの罪で、渡辺崋山(天保12年「人物」参照)ら蘭学者たちが逮捕されました。蘭学者への弾圧事件として名高い「蛮社の獄」です。

事件のきっかけとなったのはモリソン号事件(天保8年「事件・風俗」参照)でした。この異国船の来航に危機感を募らせた幕府は、江戸湾防備を強化するため、鳥居耀蔵と江川英龍に防備場所の見分を命じます。林述斎の実子で蘭学嫌いの耀蔵と、蘭学者と交友があった英龍は対立することが多く、浦賀海岸(神奈川県横須賀市)での測量方法を巡って、さらにその関係が悪化しました。そして、復命書を作成する際に英龍が崋山の手助けを受けたことを知った耀蔵は、この復命書が提出されるのを阻もうと画策しました。輩下の者に命じて崋山らの身辺を探索させ、無人島へ渡航する計画が立てられているという情報をつかみます。また、崋山と親交のある高野長英(天保7年「人物」参照)が、モリソン号に対する幕府の対応を批判して世間で噂を呼んでいた『戊戌夢物語』の著者であることも知ります。これらのことから、耀蔵は蘭学者の逮捕に踏み切ったのです。

逮捕されたのは崋山のほか、僧侶の順宣・順道父子、武士の斎藤次郎兵衛と本岐道平、蒔絵師の秀三郎、町人の彦兵衛の6人です。17日には岸和田藩(大阪府)の侍医の小関三英にも手が及びましたが、三英は牢獄生活にはとても耐えられないと判断して、自ら命を絶っています。また、一時的に行方をくらましていた長英も、18日に自首しました。

奉行所で取調べが進むうち、ほとんどの罪が事実無根であることがわかります。しかし、逮捕者の半数以上が取調べの最中に病死し、崋山は逮捕の際に押収された『慎機論』が幕政批判に当たるとして、国許の田原藩(愛知県)への蟄居を命じられました。同様の罪とされた長英も永牢に処されています。

参考文献
『洋学史研究序説』(佐藤昌介、岩波書店、1964年)、『蛮社の獄』(芳賀登、秀英出版、1970年)、『国史大辞典』

芸能

竹之丞、150回忌記念公演

4代目市村竹之丞(延宝7年「出版・芸能」参照)は役者でありながら発願して出家し、顕松山安住寺(江東区)の中興開基権大僧都大阿闍梨誠阿となり、享保3年(1718)に入寂しました。この4代目竹之丞150回忌と7代目市村羽左衛門の追善として、この年の3月3日より市村座で、12代目市村羽左衛門が『花筐未熟道成寺』を上演しました。

参考文献
『東都劇場沿革誌料』下(国立劇場芸能調査室編、国立劇場、1984年)

人物

水野忠邦 寛政6年(1794)~嘉永4年(1851)

水野忠邦は唐津藩(佐賀県)14代藩主水野忠光の子として生まれ、ほどなくして世子に定められると、わずか6歳で母と引き離されました。これは忠邦の母が側室であったためですが、忠邦は終生母への思慕を断ち切ることができなかったと伝えられています。また、忠邦が生まれた年は財政再建を柱とする唐津藩の改革が始まった年であり、藩主やその子どもたちでさえ切り詰めた生活を余儀なくされました。こうした母のいない寂しさと藩の厳しい状況に耐えて成長したことが忠邦に、情に流されることのない強靱な精神力と、強烈な改革意識を持たせる結果となったのでしょう。

忠邦は19歳で唐津藩を継ぎ、領内の風紀を取り締まるために倹約令を出して衣服や食事、髪型にまで干渉しましたが、藩の財政が好転することはありませんでした。しかし、22歳で出世への第一歩である奏者番に任じられると、幕閣の一員となる夢が芽生えます。唐津藩は22万石とも言われる豊かな土地でしたが、代々長崎警固役を課されており、これ以上の出世は望めませんでした。そこで、わずか5万石の浜松藩(静岡県)への転封を幕府に働き掛け、文化14年(1817)に実現させたのです。この転封に重臣たちは猛反対し、なかには憤死した者もいましたが、大きな犠牲と引き替えに忠邦は出世の道を歩み始めました。天保5年(1834)には念願の本丸老中に、同10年(1839)にはその最高位である老中首座にまで登り詰めます。

天保12年(1841)からは将軍家慶の信任を得て天保の改革(天保12年「事件・風俗」参照)に着手しますが、大名・旗本はもとより農民や町人の反発を受け、わずか3年足らずで失敗に終わりました。忠邦失脚のその日、失脚を喜ぶ町人たちは忠邦の屋敷を取り囲み、小石を邸内に投げ込んだり、屋敷前の辻番所を打ち壊したりしました。江戸時代を通じて、これほどまでに嫌われた老中はいないと言われています。

確かに、忠邦は出世のために上役に取り入ったり、浜松藩の財政再建のために借金の踏み倒しのようなことや、不正無尽と呼ばれる詐欺まがいのことにも手を出し、さらに多額の賄賂を受け取るなど、金権腐敗の政治家と見られていたことは事実です。しかし、こうしたマイナスのイメージは忠邦の一面にすぎませんでした。相次ぐ外国船の来航に対して外交の実行力をいかんなく発揮し、日本の対外方針を「異国船打払令」から「薪水給与令」に方向転換できたことは、忠邦が日本を取り巻く国際情勢を正しく理解していたからにほかなりません。また、幕府の再建や体制強化に全力を注いだ忠邦の功績は、もっと高く評価されるべきものです。

失脚ののち忠邦はすっかり意気消沈したと見え、あれこれと口を出していた藩政も老臣たちに任せきりになりました。弘化元年(1844)には老中に返り咲くものの、翌年には持病の悪化を理由に辞職(弘化2年「事件・風俗」参照)。さらにその老中在職中の責任を追及されて2万石を没収されたうえ、隠居謹慎を命じられます。新藩主となった子の忠精も山形藩(山形県)へ転封となったため、忠邦は渋谷(渋谷区)の下屋敷で1人寂しく晩年を送りました。嘉永4年2月10日に58年の生涯を閉じますが、幕府に赦免されたのは実にその5日後のことです。まさに悲劇の改革者と呼ぶにふさわしい人生の幕切れでした。

参考文献
『水野忠邦』(人物叢書、北島正元、吉川弘文館、1969年)、『水野忠邦 政治改革にかけた金権老中』(藤田覚、東洋経済新報社、1994年)、『三百藩藩主人名事典』4
TOP