明顕山 祐天寺

年表

天保08年(1837年)

祐天上人

天保飢饉供養塔、建立

8月、板橋乗蓮寺(板橋区)に天保飢饉供養塔が建立されました。正面には祐天上人の名号、左側面には利剣名号、右側面には宝珠名号が刻まれています。

天保の大飢饉では、中山道板橋宿の山中原に幕府の御救小屋が設けられましたが、それでも間に合わず多くの命が失われました。そのため、野ざらしとなった屍を乗蓮寺17世撮誉が境内に運び込んで埋葬し、この供養塔を建てました。供養塔の台石には、この年の3月から11月までに飢餓や病気で亡くなった423人の戒名が刻まれています。

参考文献
天保飢饉供養塔(乗蓮寺)、『“まち博”ガイドブック』下赤塚・成増・徳丸・高島平地区編(文化財シリーズ76、板橋区教育委員会社会教育課郷土資料館編、板橋区教育委員会、1994年)、「東京大仏の祐天上人名号塔」(中島正伍、『目黒区郷土研究』440号、1991年)

『浄業課務』制定

7月3日以降、この年のうちに、祐麟は『浄業課務』(『祐麟式』とも呼ぶ)を制定しました。これは祐天寺独自の日常勤行作法です。

また祐麟は、9月には『三脈伝法口訣』を撰しました。

参考文献
『浄業課務』、「祐天寺祐麟と『浄業課務』の勤行法」(大谷旭雄、『三康文化研究所年報』26・27号、1995年)

寺院

説玄、知恩院に住す

正月23日、台命により鎌倉光明寺(神奈川県鎌倉市)88世の説玄が知恩院68世となりました。説玄は2月23日より29日まで行われた、浄土宗第2祖聖光房弁長上人の600回忌法要において、名代導師を勤めました。説玄は翌年閏4月21日に遷化したため、大僧正には任じられませんでした。

参考文献
『知恩院史』、『浄土宗大辞典』

事件

大塩平八郎の乱

2月19日の早朝、大砲の音が大坂市中に鳴り響きました。蜂起の首謀者は元与力の大塩平八郎(天保4年「人物」参照)です。

事前の計画では、大坂市中を巡検中の大坂両町奉行を誅殺し、米を買い占める豪商たちの家を焼き払うはずでした。そのため、家塾洗心洞の門下生たちに砲術を伝授し、窮民たちには洗心洞の蔵書を売り払ってできた金を分け与えて、もし市中に何か起こったら馳せ参じるよう言い含めておいたのです。しかし、直前に密告者が出たため時間を繰り上げての出陣となりました。平八郎が指揮するのは洗心洞のメンバーを中心とする70余名。「救民」と書いた旗を立て、蜂起への参加を促す檄文をまき散らしながら、次々と町家を焼き払いました。事前に示し合わせていたこともあり、参加者数は300人余りに膨れ上がり、大坂市の4分の1が焦土と化したのです。しかし、しょせんは烏合の衆でした。幕府軍との交戦で1人が狙撃されると総崩れとなり、わずか半日で鎮圧されます。平八郎は養子格之助とともに逃亡しましたが、3月27日に潜伏先の屋敷を追っ手に取り囲まれると自刃自焼して果てました。

なぜ平八郎は蜂起したのでしょう。まだ平八郎が与力であった文政11年(1828)、平八郎は犯罪捜査の途中で、大坂城代や京都所司代、老中までもが荷担している金融犯罪を突き止めました。平八郎はこの不正をただそうと奮闘しましたが、それを拒む者から家族にまで圧力がかかり、半ば諦めていたのです。しかし、天保の大飢饉(天保4年「事件・風俗」参照)が深刻さを増す中、大坂町奉行所が餓死していく市民を見殺しにしていることを知り、平八郎は愕然としました。私利私欲に溺れる役人を野放しにする幕府の目を覚まさせ、天下の民を救わなければならないと思った平八郎は、「心に思い浮かんだことは正しい」とする陽明学の教えを忠実に守り、蜂起することを決意したのです。

平八郎は乱のあと、世直しの象徴に祀り上げられました。幕臣が反乱を起こすということは、やはり幕府のやり方が間違っているのだと民衆は気付いたのです。この年の6月には生田万が越後(新潟県)で乱を起こすなど、その影響は全国各地へ波及していきました。大塩平八郎の乱は、幕臣のクーデターとして幕府に衝撃を与えただけでなく、圧政に苦しむ民衆を世直しへと覚醒させ、幕府崩壊を早める基となります。


モリソン号事件

6月28日、マカオに保護されていた漂流日本人漁民7人を送り届けるためにアメリカのモリソン号が浦賀(神奈川県横須賀市)へ来航したところ、それを「異国船打払令」(文政8年「事件・風俗」参照)に従って砲撃するという事件が起きました。

浦賀に入港できなかったモリソン号は、帰港途中の薩摩山川湾(鹿児島県)にも入港しようとしますが、薩摩藩もやはり「異国船打払令」に従って砲撃してきたため断念し、マカオへ引き返していきました。このモリソン号来航の目的が漂流民の送還と、通商交渉およびキリスト教の布教であったとわかるには、1年後にオランダ商館長からもたらされる密書を待たなければなりませんでした。

老中水野忠邦(天保10年「人物」参照)は、自国の漂流民を送り届けようとした商船に砲撃を加えたことを問題視し、今後の異国船への対応を評定所に諮問します。しかし、異国船を打ち払うという方針を幕府は変えませんでした。この決定を知り憤った渡辺崋山(天保12年「人物」参照)や高野長英(天保7年「人物」参照)ら蘭学者たちが中心となり、異国船打払令を批判する機運が高まりますが、彼らはのちに蛮社の獄(天保10年「事件・風俗」参照)によって捕らえられます。

参考文献
『大塩平八郎 構造改革に玉砕した男』(長尾剛、KKベストセラーズ、2003年)、『大塩平八郎の時代』(森田康夫、校倉書房、1993年)、『その時歴史が動いた』16(NHK取材班編、KTC中央出版、2002年)、『江戸時代人づくり風土記』27・49(見る・読む・調べる大阪の歴史力 ふるさとの人と知恵 大阪、藤本篤監、農山漁村文化協会、2003年)

出版

『北越雪譜』

越後国魚沼郡塩沢(新潟県南魚沼市)の鈴木牧之が40年の歳月を掛けて著した雪国の百科事典『北越雪譜』の初編3巻が江戸で刊行されました。

内容は初雪の観測や雪の結晶の形など科学的なものから、雪国の過酷な生活や風俗習慣、幽霊にまつわる話など多岐にわたっています。蓑やかんじきなど雪国特有の道具類の挿絵も多く、雪国の生活を知らない江戸や上方の人々の目を引き付けました。

当時『北越雪譜』を置いていない貸本屋はないほどの人気だったと言われています。この雪国ブームは明治末年頃まで続きました。昭和時代に入ると、気象学者たちによって本書の価値が再評価され、また川端康成の名作『雪国』に引用されるなど、『北越雪譜』は各方面へ影響を与えました。

参考文献
『現代語訳 北越雪譜』(高橋実監、荒木常能訳、野島出版、1996年)、『北越雪譜の思想』(高橋実、越書房、1981年)、『古典の事典』14(古典の事典編纂委員会編、河出書房新社、1986年)

人物

徳川家慶 寛政5年(1793)~嘉永6年(1853)

徳川家慶は11代将軍家斉(天明7年「人物」参照)の次男として生まれました。幼名を敏次郎と言い、生母お楽の方(文化7年「祐天寺」参照)は幕臣押田敏勝の娘です。お楽の方は、田安宗武(宝暦6年「説明」参照)の息女で紀州藩(和歌山県)10代藩主徳川治宝の御簾中となった種姫(寛政6年「祐天寺」参照)のお附きでした。家慶が疱瘡を患った際に病気平癒の祈祷が祐天寺へ仰せ付けられたのも(文政3年「祐天寺」参照)、種姫の影響を受けたお楽の方が祐天寺へ信仰を寄せていたためと考えられます。

文化6年(1809)12月1日、17歳の家慶は有栖川宮織仁親王の息女である楽宮(天保11年「祐天寺」参照)を御台所に迎えました。夫婦仲が良く、楽宮が2度の流産のあと(文化9年・天保元年「祐天寺」参照)、文化10年(1813)に嫡男竹千代を出産した際には城中が喜びに包まれたと伝えられています。しかし、竹千代は生後まもなく亡くなり、その後に生まれた2人の姫君も育ちませんでした。家慶は側室との間にも多くの子どもに恵まれましたが、無事に成人したのはのちに13代将軍となる家定(嘉永6年「人物」参照)1人だけでした。

天保8年に将軍宣下を受けたとき、家慶はすでに45歳になっていました。歴代将軍のうち、48歳で6代将軍になった家宣に次ぐ、高齢での将軍即位です。ところが将軍とは名ばかりで、引退したはずの家斉が大御所として政治の実権を握っていました。そのため、家慶は老中たちが幕政について相談に来ても、ただ「そうせい」と言うばかりだったため、いつしか家臣たちに「そうせい様」とあだ名を付けられていました。しかし、家慶は実のところ改革への熱意を胸の内に秘めていたのです。

天保12年(1841)に家斉が薨去すると、その百か日も済まないうちに家斉の側近を幕閣から追放しました。そして、信頼する水野忠邦(天保10年「人物」参照)を老中首座に任じて、天保の改革(天保12年「事件・風俗」参照)を断行させます。家慶はこのとき、すでに49歳になっていました。

家慶の時代はまさに「内憂外患」の時代です。貨幣の改鋳や天保の大飢饉(天保4年「事件・風俗」参照)により物価が高騰して世の中が混乱していました。そこへ大塩平八郎の乱(「事件・風俗」参照)や三方領地替(天保11年「事件・風俗」参照)などが起き、幕府の権威は著しく失墜。さらに追い打ちを掛けるように、モリソン号(「事件・風俗」参照)などの外国船が相次いで来航するという、対外的な危機にも直面したのです。こうした難局続きの中、厳しすぎる改革への批判が高まり、「上知令」が命取りとなって天保の改革は失敗に終わりました。

その後、家慶は阿部正弘(弘化4年「人物」参照)を老中首座に抜擢して政務を遂行させ、幕政も一時は落ち着いたかに見えました。しかし、アメリカのジェームス・ビッドルが開国を要求する(弘化3年「事件・風俗」参照)など外交問題がますます深刻化し、家慶はストレスから体調を崩します。浦賀にペリーが来航する(嘉永6年「事件・風俗」参照)と病状が急変し、家慶は6月22日に61歳で薨去しました。

参考文献
『徳川将軍家十五代のカルテ』(篠田達明、新潮社、2005年)、『徳川将軍百話』(中江克己、河出書房新社、1998年)、『徳川将軍列伝』(北島正元編、秋田書店、1974年)、『徳川諸家系譜』
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