8月、板橋乗蓮寺(板橋区)に天保飢饉供養塔が建立されました。
正面には祐天上人の名号、左側面には利剣名号、右側面には宝珠名号が刻まれています。
天保の大飢饉では、中山道板橋宿の山中原に幕府の御救小屋が設けられましたが、それでも間に合わず多くの命が失われました。そのため、野ざらしとなった屍を乗蓮寺17世撮誉が境内に運び込んで埋葬し、この供養塔を建てました。供養塔の台石には、この年の3月から11月までに飢餓や病気で亡くなった423人の戒名が刻まれています。
7月3日以降、この年のうちに、祐麟は『浄業課務』(『祐麟式』とも呼ぶ)を制定しました。
これは祐天寺独自の日常勤行作法です。また祐麟は、9月には『三脈伝法口訣』を撰しました。
寛政5年(1793)~嘉永6年(1853)
徳川家慶は11代将軍 家斉(天明7年「人物」参照)の次男として生まれました。幼名を敏次郎と言い、生母お楽の方(文化7年「祐天寺」参照)は幕臣 押田敏勝の娘です。お楽の方は、田安宗武(宝暦6年「説明」参照)の息女で紀州藩(和歌山県)10代藩主 徳川治宝の御簾中となった種姫(寛政6年「祐天寺」参照)のお附きでした。家慶が疱瘡を患った際に病気平癒の祈祷が祐天寺へ仰せ付けられたのも(文政3年「祐天寺」参照)、種姫の影響を受けたお楽の方が祐天寺へ信仰を寄せていたためと考えられます。
文化6年(1809)12月1日、17歳の家慶は有栖川宮織仁親王の息女である楽宮(天保11年「祐天寺」参照)を御台所に迎えました。夫婦仲が良く、楽宮が2度の流産のあと(文化9年・天保元年「祐天寺」参照)、文化10年(1813)に嫡男竹千代を出産した際には城中が喜びに包まれたと伝えられています。しかし、竹千代は生後まもなく亡くなり、その後に生まれた2人の姫君も育ちませんでした。家慶は側室との間にも多くの子どもに恵まれましたが、無事に成人したのはのちに13代将軍となる家定1人だけでした。
天保8年に将軍宣下を受けたとき、家慶はすでに45歳になっていました。歴代将軍のうち、48歳で6代将軍になった家宣に次ぐ、高齢での将軍即位です。ところが将軍とは名ばかりで、引退したはずの家斉が大御所として政治の実権を握っていました。そのため、家慶は老中たちが幕政について相談に来ても、ただ「そうせい」と言うばかりだったため、いつしか家臣たちに「そうせい様」とあだ名を付けられていました。しかし、家慶は実のところ改革への熱意を胸の内に秘めていたのです。
天保12年(1841)に家斉が薨去すると、その百か日も済まないうちに家斉の側近を幕閣から追放しました。そして、信頼する水野忠邦を老中首座に任じて、天保の改革を断行させます。家慶はこのとき、すでに49歳になっていました。
家慶の時代はまさに「内憂外患」の時代です。貨幣の改鋳や天保の大飢饉により物価が高騰して世の中が混乱していました。そこへ大塩平八郎の乱や三方領地替などが起き、幕府の権威は著しく失墜。さらに追い打ちを掛けるように、モリソン号などの外国船が相次いで来航するという、対外的な危機にも直面したのです。こうした難局続きの中、厳しすぎる改革への批判が高まり、「上知令」が命取りとなって天保の改革は失敗に終わりました。
その後、家慶は阿部正弘を老中首座に抜擢して政務を遂行させ、幕政も一時は落ち着いたかに見えました。しかし、アメリカのジェームス・ビッドルが開国を要求するなど外交問題がますます深刻化し、家慶はストレスから体調を崩します。浦賀にペリーが来航すると病状が急変し、家慶は6月22日に61歳で薨去しました。