2月19日、紀州藩(和歌山県)11代藩主 徳川斉順の側室於ルキが流産しました。その子どもの法号は明元院香陽浄満大童女です。のちに斉順の子女たちの供養塔が祐天寺に建立されますが、その際に合祀された1霊です。
2月、祐麟は『真宗浄土精華集』を著しました。これは祐天寺独自の伝法書です。
『江戸名所図会』は江戸と江戸近郊の絵入り地誌です。全7巻20冊のうち、3巻10冊までが天保5年(1834)に、そして残りの4巻10冊がこの年に刊行されました。祐天寺については3巻に、「常行念仏の道場にして、鉦鼓の声は山林に谽谺せり」と絵入りで紹介されています。
また、3月に祐天寺で雛人形を飾る習慣があった由来も、以下のように記されています。元禄年中(1688~1703)、祐天上人が5代将軍 綱吉の前で法問する姿を側室のお伝の方(元禄5年「人物」参照)が像に刻みました。これは長悦の像(宝永4年「祐天上人」参照)と名付けられ、鶴姫(延宝5年「人物」参照)に進ぜられて雛祭りの席に一緒に飾られていましたが、のちに祐海がたまわって祐天寺に納められました。このため祐天寺では毎年3月にこの像を飾って、雛祭りの儀式を行っていたということです。