明顕山 祐天寺

年表

天保05年(1834年)

祐天上人

年中行事、改定

正月、祐麟により祐天寺の年中行事が改定されました。これまでは宝暦2年(1752)に祐天寺2世祐海が取り決めた年中行事を守ってきましたが、年月を経て時節に合わないことも出てきたため、多少増減しました。改めて祐麟が『明顕山年中行事清規』として年中行事の清規(起居動作などの作法を決めた規則)をまとめましたが、現存しているのは天保3年(1832)に書かれた正月から6月までの部分のみです。

参考文献
『明顕山年中行事清規』

祐麟、名号に裏書

2月、祐麟は祐天上人名号軸が真筆であることを裏書きしました。この名号軸は現在、渡内二伝寺(神奈川県藤沢市)に所蔵されています。

参考文献
祐天上人名号軸裏書(二伝寺)

祐聞、遷化

3月18日、赤坂清巌寺(現存せず)の祐聞が遷化しました。祐聞は祐天寺9世祐東の弟子です。法号は顕蓮社瑞誉上人光阿祐聞和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

市ヶ谷百萬遍講位牌

9月、市ヶ谷百萬遍講から位牌が奉納されました。表には祐天寺8世祐応の名号と「面々先祖代々恩怙怨敵諸精霊施主現當両益」という言葉が書かれ、裏には施主となった150人ほどの講員の名が記されています。

参考文献
市ヶ谷百萬遍講位牌

涅槃図、修補

12月5日、祐麟が芝伊皿子(港区)に住む塩田可蔵一寛とその息子大之丞一修に命じていた「涅槃図」の修補が終わり、祐天寺に納められました。この涅槃図は享和元年(1801)10月に描かれたものです。

参考文献
涅槃図

大日如来石像、再建

12月8日、蛇崩(目黒区)の街道筋に大日如来石像が再建され、台石正面に祐麟の名号が彫られました。この石像は、のちに寿福寺(同区)の山門横へ移されました。

参考文献
祐麟名号付き大日如来像(寿福寺)

順海、浄泉寺へ

この年、順海が松崎浄泉寺(静岡県賀茂郡)19世となりました。順海は知恩院69世順良の弟子で、のちに祐興と名を改め、弘化元年(1844)に祐天寺13世となります。

参考文献
『寺録撮要』1

広度寺に問い合わせ

この年、祐麟は松崎浄泉寺の順海(「祐天寺」別項参照)を通じて、伊豆広度寺(確認できず)に開山の智当上人(檀通上人の師)と2世意白上人の忌日を問い合わせました。6月に広度寺16世響辨から返書が届きましたが、忌日についてはわかりませんでした。

しかし、正徳5年(1715)に祐天上人が広度寺に寄進した幡や打敷、幕、仏具などが70年前の火災で焼失し、その後、祐天寺から再び幡や打敷を寄進していたことがわかりました。

参考文献
『寺録撮要』1

寺院

利剣即是の法問を行う

5月、知恩院宮門跡の尊超法親王(嘉永5年「寺院」参照)が、利剣即是の法問を行いました。利剣即是とは善導大師の『般舟讃』に「利剣即是弥陀号、一声称念罪皆除」と説かれているもので、「阿弥陀仏の名号を称えると、すべての罪障煩悩を利剣のように断ち切ってくれる」という意味です。

参考文献
『浄土宗大年表』、『浄土宗大辞典』

風俗

『東海道五拾三次』

歌川広重(「人物」参照)の代表作となる『東海道五拾三次』(以下、『五拾三次』)が完成しました。東海道にある53の宿駅に、日本橋と京都三条大橋を加えた全55枚の画から成ります。

この『五拾三次』は葛飾北斎の『富嶽三十六景』(文政12年「事件・風俗」参照)と並んで、浮世絵風景版画の傑作とされています。東海道が絵画の題材として描かれるようになったのは、参勤交代が制度化された寛永12年(1800)以降と考えられています。初期の作品は地図の要素が強く、参勤交代の資料として描かれたようです。

浮世絵師で最初に東海道の全宿駅を描いたのは菱川師宣(寛文7年「人物」参照)で、元禄3年(1690)に『東海道分間絵図』として出版されています。しかしこれも、絵地図の要素を多分に含むものでした。以後、東海道は浮世絵師たちにより盛んに描かれますが、広重以前の作品に共通するのは、宿駅の人々や旅人が主題として描かれていることです。『五拾三次』では、人物よりも景観描写に重点が置かれ、四季折々の情景や天候までも臨場感たっぷりに表現されています。広重の絵のこうした構成は北斎の『富嶽三十六景』に影響を受けたとも考えられています。

広重の技法の特徴は、透視図法や遠近法、「拭きぼかし」というグラデーションを用いて空間の奥行きを深め、鑑賞者自身がその風景を見ているような臨場感を作り出したことにあります。広重の後年の作品に頻繁に用いられる手法が『五拾三次』ですでに見られたのです。このように『五拾三次』は今までにない写実性に富んでいることから、広重自身が東海道をスケッチ旅行したものと考えられていました。しかし、近年の研究では、これに疑問の声が上がっています。なぜなら、江戸に近い武蔵や相模の宿駅は実景豊かで広重自身の現地体験を彷彿とさせますが、西に上るにしたがって風景のリアリティーが希薄になり、別の本の挿絵から図様を借用したと見られるものがあるためです。

スケッチ旅行の真偽はともかくとして、江戸の人々のみならず現代の私たちをも惹き付けてやまない作品を広重は世に送り出したのです。

参考文献
『東海道人と文化の万華鏡』(永田生慈ほか、ウェッジ、2003年)、『広重 東海道五拾三次』(鈴木重三ほか、岩波書店、2004年)、『広重 東海道五十三次』(近藤市太郎、平凡社、1960年)、『広重と浮世絵風景画』(大久保純一、東京大学出版会、2007年)

出版

『邯鄲諸国物語』

全20編のうち初編から8編までを柳亭種彦(文政12年「人物」参照)が、残りを笠亭仙果が書き、この年から安政3年(1856)に掛けて刊行されました。井原西鶴の『西鶴諸国ばなし』(貞享2年「出版」参照)や江島其磧(享保8年「人物」参照)の『其磧諸国物語』に倣った作品ですが、種彦はひと捻り加えて「夢物語」という意味の「邯鄲」の2字を冠しました。

最初の近江の巻では小々波屋の一人娘阿加奈と竹花屋の跡継ぎ鯉七の仲を取り持った阿只が、悪党を討伐した箕作家の家臣石倉尉之助と結ばれ、続く出羽の巻で下僕帆助を助けた浪士語代関右衛門の娘が阿只とわかります。大和の巻では箕作家の家臣茂山鍾三郎の息子京太郎が父の敵である黒塚の官六郎を討ち、播磨の巻では京太郎の弟権三の活躍が描かれるといったように、各国ごとに独立した話でありながら、登場人物の一部にそれぞれかかわりを持たせて統一感を出しています。最後の摂津の巻は未完です。

参考文献
『柳亭種彦集・』9(古典叢書、柳亭種彦、本邦書籍、1990年)、『日本古典文学大辞典』

人物

歌川広重 寛政9年(1797)~安政5年(1858)

江戸後期の浮世絵師である歌川広重は江戸八代洲河岸(千代田区丸の内)の定火消同心の子として生まれ、文化6年(1809)、13歳のときに父の跡を継ぎますが、同年に両親を亡くし、家職と家政を一手に引き受けることになります。両親没後、ほどなくして歌川豊広に弟子入りしました。天保初年頃まで定火消を務めながら絵師として活躍していたと言われています。

師の豊広が亡くなるまでは美人画、役者絵などを手掛けていました。師の没後、風景画の処女作として天保2年(1831)に出された『東都名所』は、それまでの小判、中判の名所絵と異なり奇抜な構図が用いられ、風景画の開眼作と評されています。そして『東海道五拾三次』以降、『近江八景』『京都名所』『四季江都名所』といった風景作品を次々と発表していきました。なかでも『江戸近郊八景』は広重の最高傑作と言われています。

版画だけではなく肉筆画も多数描いた広重ですが、画業の晩年期に肉筆作品が集中しています。その最も主だったものは、天童広重と呼ばれる作品群です。これは出羽国天童藩(山形県)の織田家から依頼を受けて制作した肉筆画群です。財政難に陥っていた天童藩は、領内の豪農や豪商から強制的に御用金を調達していました。その返礼として広重の肉筆画が贈られたのです。このとき広重は、同藩のために200とも300とも言われる軸装作品を描き上げました。ただ、この膨大な作品群は、数人の弟子たちを動員して制作したと考えられています。

また、阿波国(徳島県)蜂須賀家から依頼を受けて制作した『武相名所手鑑』がありますが、この作品が描かれるのに先立って、広重は友人たちと江戸から箱根へ遊山に出掛けています。このときに旅の景色を略筆で描きとどめ、絵日記にしたものを基に描き上げています。このように広重の肉筆画は、当時の有力者との関係で注文を受けている点が特徴的です。

広重の人気は庶民にとどまるものではありませんでした。尾張徳川家の菩提寺である建中寺(名古屋市東区)に埋葬された13代藩主慶臧の墓地から、副葬品として錦絵や版本が大量に出土しましたが、その中に広重の『東海道五拾三次』や『東都名所』『四季江都名所』などの作品も見られました。さらに、浮世絵がヨーロッパで知られ、海外でも蒐集されるようになってから、広重は第一級の人気を集めてきました。特にアメリカ人のジョン・ハッパーは広重版画の膨大な蒐集を行い、研究の基礎を築きました。また、フィンセント・ゴッホが浮世絵を蒐集し、広重の「大はしあたけの夕立」「亀戸梅屋舗」(『名所江戸百景』)などを油絵で模写したことは有名です。

広重はその生涯に約1,500点にのぼる名所絵を描き上げました。死してなお、その画は国内のみならず、海外にまで影響を与えているのです。

参考文献
『浮世絵再発見』(内藤正人、小学館、2005年)、『歌川広重展』(太田記念美術館編集・発行、1996年)、『歌川広重 肉筆画の世界』(太田記念美術館編集・発行、2005年)、『歌川広重』(太田記念美術館編集・発行、2005年)
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