明顕山 祐天寺

年表

天保04年(1833年)

祐天上人

葵紋に合印

2月、寺社奉行の脇坂中務大輔安董より、「提灯に葵紋を用いている寺社は、公儀の提灯と紛らわしくないように合印を付けること」と増上寺を通じて達しがありました。そこで祐天寺でも御紋付き提灯(「祐天寺」別項参照)の合印を定め、同月20日に増上寺役所へ届けました。

参考文献
『寺録撮要』5、『御触書天保集成』下(高柳真三ほか編、岩波書店、1941年)

祐天上人坐像、修補

2月、祐麟は本尊の祐天上人坐像を修補し、祐天上人、祐海をはじめ師僧の祐水、香堂、そして自身の両親および自身の法号を記した木札を像の胎内に納めました。

参考文献
祐天上人坐像胎内木札

法蔵寺、出開帳

4月2日から本所回向院(墨田区)で羽生法蔵寺(茨城県常総市)の出開帳が行われました。法蔵寺は、祐天上人が得脱させたと言い伝えられる累一族の菩提寺です(寛文12年「伝説」参照)。

法蔵寺は、大破した本堂や庫裏の修復資金を募るため、祐天寺2世祐海が寄進した祐天上人像をはじめ本地子安地蔵菩薩像、その他の霊宝を60日間開帳しました。開帳の届けは、前年閏11月に寺社奉行の間部詮勝に提出していました。

参考文献
『開帳差免帳』(国立国会図書館蔵)、『武江年表』

即往院・智禅院、逝去

5月6日、尾張藩(愛知県)11代藩主徳川斉温の御簾中である.樹院(田安家3代当主斉匡の息女、愛姫)お附きの即往院が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は即往院安誉智覚生蓮法尼です。

また9月13日には、.樹院の御年寄である智禅院が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は智禅院定誉心月恵光法尼です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『徳川諸家系譜』2・3

仁王門、修復

仁王門屋根瓦の下地および土居葺が壊れ雨漏りがひどくなったため、修復の許可を寺社奉行に願い出ました。

6月10日、祐天寺からの願書3通と増上寺役者の昌泉院と春我の添簡1通を、役人の竹内喜平を通じて寺社奉行の脇坂安董に提出しました。

6月14日、屋根の修復の許可を伺うため役僧を遣わしたところ、喜平が応対し、19日頃に再び来るようにと言われました。19日に役僧の順香を遣わすと、喜平から屋根修復の許可が伝達されました。

7月13日に屋根の修復が終わり、26日に寺社奉行へ修復完了の届書を提出しました。祐隣は棟札に名号と修復が成就した日付などを書き、仁王門に納めました。

参考文献
仁王門棟札、『寺録撮要』4

八重園、逝去

6月16日、佐賀藩(佐賀県)7代藩主鍋島重茂の継室円諦院(田安家初代当主宗武の息女、淑姫)の上臈である八重園が逝去しました。祐天寺に葬られ、祠堂金50両と位牌が納められました。八重園は小倉権大納言宜季の息女で、その法号は白蓮院殿馨誉貞熏祐円大姉です。

参考文献
八重園位牌、『本堂過去霊名簿』、『徳川諸家系譜』3

斉政、逝去

6月26日、岡山藩(岡山県)9代藩主池田斉政が逝去し、祐天寺に法号が納められました。斉政は祐仙院や凉叢院(天保12年「祐天寺」参照)の実父です。法号は観国院殿故羽林次将西嶽宗周大居士です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

万里小路、逝去

6月28日、江戸城西丸御年寄の万里小路が逝去し、法号と祠堂金20両が祐天寺に納められました。法号は延良院殿珠誉仙覚寿貞大姉です。万里小路は、のちに12代将軍となる家慶のお附きです。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

真乗院歴代の位牌

7月、芝真乗院(港区)の歴代住職を合祀した位牌が、祐天寺に納められました。位牌の裏には大僧都寿翁法印によって「真乗院の開祖億道の願いにより、祐天上人の追福のため建立した経蔵が100年近く経って壊れたので、修補のため前年に30金を寄付した」ことや、「真乗院の代々の霊牌を経蔵に永代安置するように」と書かれました。

真乗院は正徳2年(1712)、文昭院殿(6代将軍家宣)の霊廟をつかさどるために創建された増上寺の塔頭寺院です。初代住職を祐天上人の弟子であった億道が勤め、億道遷化の際には黄檗版大蔵経などが遺品として祐天寺に納められました(寛保2年「祐天寺」参照)。

参考文献
真乗院位牌、『寺録撮要』2

本尊宮殿、修補

7月、祐天上人坐像宮殿の修補が終わりました。宮殿の裏には将軍家斉附き老女の飛鳥井と瀬川(天保3年「祐天寺」参照)が施主であることが、祐麟によって記されました。また棟札には、白山厳浄院(文京区)の前住職了道が宮殿の彩色をしたことが記されています。そのほか役僧の順香、納所の円順、肝煎の岡田甚兵衛の名も記されています。

参考文献
祐天上人坐像宮殿棟札、祐天上人坐像宮殿裏書

浜浦、逆修

8月9日、祐麟は江戸城本丸御客扱の浜浦へ逆修を授けました。法号は清蓮院殿貞誉祐香大姉です。

御客扱とは御客会釈のことと考えられ、この役職は将軍が大奥に御成した際や、御三家・御三卿が登城した際の接待が主な仕事で、将軍にしか附きませんでした。また、御年寄を退いた者が任命されることが多く一種の隠居職であったようです。これらのことから浜浦は将軍家斉のお附きだったと考えられます。

浜浦は、駿府定番(駿府城の警衛)であった内藤重三郎忠恕の姪で、忠恕の妻たちの法号も祐天寺に納めています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『静岡市史』近世(静岡市役所編集・発行、1979年)

葵紋付き提灯の由来

9月27日、増上寺役所より「葵紋付き提灯の由緒を調べて差し出すように」という来簡がありました。そこで、祐天寺の本堂造立の折に天英院(6代将軍家宣の御台所)から提灯が寄付されたことをはじめ、浄岸院(5代将軍綱吉の養女、竹姫)などから事あるごとに提灯が寄付された経緯をまとめました。

毎年7月の盆供、千部法要、10月の十夜念仏、祥月法要の際に使用する台提灯、釣提灯は普段はしまってあること、また毎夜12時に鐘を撞く際に使用する弓張提灯は門外ではいっさい使用していない旨を記した書付を、増上寺帳場の演翁に渡しました。

参考文献
『寺録撮要』5

五重相伝

9月、祐麟は田安御殿女中の江川と嶋浦へ、五重相伝を授けました。その際に、江川には順誓院乗誉清蓮祐栄大姉、嶋浦には光蓮院生誉妙往祐喜大姉という法号を授けました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

寺院

成田不動、出開帳

3月20日から6月1日まで、深川永代寺(江東区)において成田山不動明王像の出開帳が行われました。その開帳の際には、成田山の霊宝として祐天上人の六字名号も出展されました。

期間中は連日多くの参詣者で賑わい、豪華な奉納品の山ができたと言われています。また、閉帳後も個別の参拝を請う者は、厨子を開いてもらうために1両を献じました。閉帳しても終日参拝者が途切れなかったため、後日再び一大開帳を行うこととなりました。

参考文献
『江戸の開帳』(江戸選書3、比留間尚、吉川弘文館、1980年)、『成田山新勝寺史料集』5(成田山新勝寺史料編纂委員会編、成田山新勝寺、1998年)、『武江年表』

事件

天保の大飢饉

天保の飢饉は関東以北を中心に、天保4年の大凶作から約7年間続きました。

この期間が常に凶作を招く天候であったわけではありません。飢饉の主な原因は天候による凶作のほか、藩経済の仕組みや政策などの人為的要因が挙げられます。餓死、病死、離散による村の人口の減少から農村荒廃、耕作放棄が深刻化していったため、天候の良い年であっても田畑の不整備により不作にしてしまう事態が起こりました。また、米価高騰に乗じて、備蓄してあった米穀を残らず売り払うなどして飢饉対策を怠ったことも、被害を悪化させたのです。この飢饉による死者は疫病死も含め、全国で20万から30万人と推定されています。

食料のほとんどを他国に依存している江戸や大坂などの都市部にも、飢饉は大きな影響を与えました。米だけではなく、酒、油、炭、麦などの生活必需品までもが高騰しました。これは、諸藩が飯米を確保するために、食用にならない作物の作付けを制限し、雑穀生産や山菜採りを奨励したためです。

この時期は一揆や騒動も頻発しました。江戸に目立った打ち壊しはありませんでしたが、大坂をはじめ各地の城下町で米屋が打ち壊され、農村部では豪農などに対する激しい打ち壊しを伴った農民一揆が起こりました。

天保期の餓死者の数は天明の飢饉(天明3年「事件・風俗」参照)と比べると減っています。これは、天明期に得た教訓から、藩主たちの救済意識が格段に向上したためと考えられています。しかし、暴利をむさぼる商人や、藩財政の逼迫による借金返済のため大坂・江戸へ米を登らせなければならない諸藩の実情が、飢饉を招いたことは否めません。また、農民の都市流出や自給農村の解体と、それに伴う米穀を購入に頼る農民層の増加は、下層農民の飢饉に対する抵抗力をさらに弱体化させていきました。

参考文献
『近世の飢饉』(菊池勇夫、吉川弘文館、1997年)、『飢饉の社会史』(菊池勇夫、校倉書房、1994年)、『飢饉日本史』(中島陽一郎、雄山閣出版、1981年)、『飢饉』(荒川秀俊、教育社、1979年)

出版

『洗心洞箚記』

大塩平八郎(「人物」参照)が陽明学(正保元年「解説」参照)や孔子の教えから学び感得したことを書きつづった読書ノートです。この年に自費出版されました。

内容は多岐にわたりますが、一貫したテーマは「良知を致す」と「太虚に帰す」の2つです。良知とは陽明学の中心となる考え方で、「人が生まれながらに持っている善性」という意味です。また、太虚とは誰もが持っているものとされ、「汚れなく真実正しい美しい心境」という意味です。つまり、心を太虚に戻して良知を発揮すること、これが平八郎の目指した境地でした。

こうした平八郎の思想は、心が感じることや思うことは、初めから理にかなった正しい判断であるとする「心即理」や、その正しい判断は行動に移さなければならないとする「知行合一」といった陽明学本来の思想に裏付けられるものです。4年後に平八郎を、幕臣でありながら幕府に対する反乱(天保8年「事件・風俗」参照)へと突き動かす思想を、この『洗心洞箚記』から読み取ることができます。

参考文献
『大塩平八郎 構造改革に玉砕した男』(長尾剛、KKベストセラーズ、2003年)、『大塩平八郎』(岡本良一、創元社、1975年)、『古典の事典』14(古典の事典編纂委員会編、河出書房新社、1986年)

人物

大塩平八郎 寛政5年(1793)~天保8年(1837)

大塩平八郎は大坂天満(大阪市北区)で代々与力を務める大塩家に生まれました。7歳で父を、その翌年には母を亡くし、まだ与力在職中であった祖父に育てられたことから、平八郎は早く立派な与力になりたいと考えていたようです。

そんな平八郎が希望に胸を膨らませ与力見習いとして初出仕したのは、文化3年(1806)14歳のときのことです。しかし、そこで平八郎が見たものは私利私欲に溺れ、町人たちに付け届けや礼金を要求しては捜査に手心を加える与力たちの姿でした。平八郎が失望したことは言うまでもありません。しかも時期を同じくして平八郎は、大塩家が徳川家康の直参であり、昔は戦で手柄を立ててほうびに弓をたまわったこともある由緒正しい家柄だと知ります。先祖を誇らしく思えば思うほど、汚職まみれの与力社会に身を置く自分が恥ずかしく、平八郎は苦しみました。

その救いを平八郎は学問に求めました。20歳を過ぎた頃から、朱子学を極めて自己の内面を磨き、精神だけでも先祖に負けないようにしようと考え始めたのです。文政元年(1818)に正式に大坂東町奉行所の与力となった頃には、並外れた正義感と何事にも動じない強い意志を持った人物へと成長していました。

そして、仕事の面でも転機が訪れます。平八郎が賄賂三昧の同僚たちにいら立ちを募らせていた文政3年(1820)、新たに大坂東町奉行に任じられた高井山城守実徳は平八郎の素質を見抜いて「己の信じるまま正しいと思うことせよ」と命じたのです。良き理解者を得た平八郎は存分に能力を発揮して文政12年(1829)には、大坂西町奉行所与力の弓削新衛門が犯罪組織を作り、手下どもに強盗や恐喝、殺人などを行わせていた「奸吏糾弾事件」を解決しました。この事件は文政10年(1827)の「キリシタン逮捕事件」、天保元年(1830)の「破戒僧遠島事件」(天保元年「寺院」参照)とともに平八郎の3大功績と呼ばれ、有能な官吏として平八郎の名前を歴史にとどめることになります。

平八郎の人生を左右することになる陽明学(正保元年「解説」参照)と出会ったのも、これらの事件にかかわっていた30歳頃のことです。実徳が天保元年に転任すると、平八郎も38歳の若さで与力を退職し、その後は家塾「洗心洞」を開いて陽明学の研究と教授に専念しました。陽明学者としても「小陽明」と頼山陽に賞賛されるほど、その才能を開花させ、『洗心洞箚記』(「出版・芸能」参照)や『古本大学刮目』などを著しています。

朱子学を正しい学問としていた江戸時代には、絶対的な身分制度が築かれ、上の者への反論や疑問を持つことは許されませんでした。しかし、陽明学では下の者が不満や反抗心を持つのは上の者の責任と考え、さらに正しいと思ったことは心で思うだけではなく、行動に示さなければならないと教えます。天保の大飢饉(「事件・風俗」参照)で大坂市中にまで餓死者が出るようになったとき、平八郎が乱(天保8年「事件・風俗」参照)を起こしたのは陽明学者として当然のことだったのでしょう。この乱のあと、潜伏先の民家を取り囲まれた平八郎は自刃自焼して果てます。45年の生涯でした。

参考文献
『大塩平八郎の時代―洗心洞門人の軌跡』(森田康夫、校倉書房、1993年)、『大塩平八郎 構造改革に玉砕した男』、『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』
TOP