2月、寺社奉行の脇坂中務大輔安董より、「提灯に葵紋を用いている寺社は、公儀の提灯と紛らわしくないように合印を付けること」と増上寺を通じて達しがありました。そこで祐天寺でも御紋付き提灯(「祐天寺」別項参照)の合印を定め、同月20日に増上寺役所へ届けました。
2月、祐麟は本尊の祐天上人坐像を修補し、祐天上人、祐海をはじめ師僧の祐水、香堂、そして自身の両親および自身の法号を記した木札を像の胎内に納めました。
4月2日から本所回向院(墨田区)で羽生法蔵寺(茨城県常総市)の出開帳が行われました。法蔵寺は、祐天上人が得脱させたと言い伝えられる累一族の菩提寺です(寛文12年「伝説」参照)。
法蔵寺は、大破した本堂や庫裏の修復資金を募るため、祐天寺2世祐海が寄進した祐天上人像をはじめ本地子安地蔵菩薩像、その他の霊宝を60日間開帳しました。開帳の届けは、前年閏11月に寺社奉行の間部詮勝に提出していました。
5月6日、尾張藩(愛知県)11代藩主徳川斉温の御簾中である.樹院(田安家3代当主斉匡の息女、愛姫)お附きの即往院が逝去し、祐天寺に法号が納められました。
法号は即往院安誉智覚生蓮法尼です。
また9月13日には、琮樹院の御年寄である智禅院が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は智禅院定誉心月恵光法尼です。
仁王門屋根瓦の下地および土居葺が壊れ雨漏りがひどくなったため、修復の許可を寺社奉行に願い出ました。
6月10日、祐天寺からの願書3通と増上寺役者の昌泉院と春我の添簡1通を、役人の竹内喜平を通じて寺社奉行の脇坂安董に提出しました。
6月14日、屋根の修復の許可を伺うため役僧を遣わしたところ、喜平が応対し、19日頃に再び来るようにと言われました。19日に役僧の順香を遣わすと、喜平から屋根修復の許可が伝達されました。
7月13日に屋根の修復が終わり、26日に寺社奉行へ修復完了の届書を提出しました。祐隣は棟札に名号と修復が成就した日付などを書き、仁王門に納めました。
6月16日、佐賀藩(佐賀県)7代藩主鍋島重茂の継室円諦院(田安家初代当主宗武の息女、淑姫)の上臈である八重園が逝去しました。祐天寺に葬られ、祠堂金50両と位牌が納められました。八重園は小倉権大納言宜季の息女で、その法号は白蓮院殿馨誉貞熏祐円大姉です。
6月26日、岡山藩(岡山県)9代藩主池田斉政が逝去し、祐天寺に法号が納められました。斉政は祐仙院や凉叢院(天保12年「祐天寺」参照)の実父です。法号は観国院殿故羽林次将西嶽宗周大居士です。
6月28日、江戸城西丸御年寄の万里小路が逝去し、法号と祠堂金20両が祐天寺に納められました。
法号は延良院殿珠誉仙覚寿貞大姉です。万里小路は、のちに12代将軍となる家慶のお附きです。
7月、芝真乗院(港区)の歴代住職を合祀した位牌が、祐天寺に納められました。位牌の裏には大僧都寿翁法印によって「真乗院の開祖億道の願いにより、祐天上人の追福のため建立した経蔵が100年近く経って壊れたので、修補のため前年に30金を寄付した」ことや、「真乗院の代々の霊牌を経蔵に永代安置するように」と書かれました。
真乗院は正徳2年(1712)、文昭院殿(6代将軍家宣)の霊廟をつかさどるために創建された増上寺の塔頭寺院です。初代住職を祐天上人の弟子であった億道が勤め、億道遷化の際には黄檗版大蔵経などが遺品として祐天寺に納められました(寛保2年「祐天寺」参照)。
7月、祐天上人坐像宮殿の修補が終わりました。宮殿の裏には将軍家斉附き老女の飛鳥井と瀬川(天保3年「祐天寺」参照)が施主であることが、祐麟によって記されました。また棟札には、白山厳浄院(文京区)の前住職了道が宮殿の彩色をしたことが記されています。そのほか役僧の順香、納所の円順、肝煎の岡田甚兵衛の名も記されています。
8月9日、祐麟は江戸城本丸御客扱の浜浦へ逆修を授けました。
法号は清蓮院殿貞誉祐香大姉です。
御客扱とは御客会釈のことと考えられ、この役職は将軍が大奥に御成した際や、御三家・御三卿が登城した際の接待が主な仕事で、将軍にしか附きませんでした。また、御年寄を退いた者が任命されることが多く一種の隠居職であったようです。これらのことから浜浦は将軍家斉のお附きだったと考えられます。
浜浦は、駿府定番(駿府城の警衛)であった内藤重三郎忠恕の姪で、忠恕の妻たちの法号も祐天寺に納めています。
9月27日、増上寺役所より「葵紋付き提灯の由緒を調べて差し出すように」という来簡がありました。そこで、祐天寺の本堂造立の折に天英院(6代将軍 家宣の御台所)から提灯が寄付されたことをはじめ、浄岸院(5代将軍 綱吉の養女、竹姫)などから事あるごとに提灯が寄付された経緯をまとめました。
毎年7月の盆供、千部法要、10月の十夜念仏、祥月法要の際に使用する台提灯、釣提灯は普段はしまってあること、また毎夜12時に鐘を撞く際に使用する弓張提灯は門外ではいっさい使用していない旨を記した書付を、増上寺帳場の演翁に渡しました。
9月、祐麟は田安御殿女中の江川と嶋浦へ、五重相伝を授けました。その際に、江川には順誓院乗誉清蓮祐栄大姉、嶋浦には光蓮院生誉妙往祐喜大姉という法号を授けました。
3月20日から6月1日まで、深川永代寺(江東区)において成田山不動明王像の出開帳が行われました。その開帳の際には、成田山の霊宝として祐天上人の六字名号も出展されました。
期間中は連日多くの参詣者で賑わい、豪華な奉納品の山ができたと言われています。また、閉帳後も個別の参拝を請う者は、厨子を開いてもらうために1両を献じました。閉帳しても終日参拝者が途切れなかったため、後日再び一大開帳を行うこととなりました。