明顕山 祐天寺

年表

天保03年(1832年)

祐天上人

知恩寺祐天上人像の由来

1月15日に祐麟は、百萬遍知恩寺(京都市左京区)の御影堂に安置されている祐天上人像(正徳2年「祐天上人」・寛政5年「祐天寺」参照)の由来を『寺録撮要』に記しました。由来のほかに、祐天上人像を阿弥陀堂に遷したことや、毎月15日には百萬遍念仏が執行されて護符名号の利益を受ける人々が多いことなどが記されています。

参考文献
『寺録撮要』1

随身稲荷神像の由来

2月の初午の日(4日)に祐麟は、祐天寺の稲荷社に祀られている神像の由来を『寺録撮要』に記しました。もともとこの神像は、鴻巣勝願寺(埼玉県鴻巣市)35世香堂が祐天上人法孫の守護神として奉持していたもので、それを祐麟が引き継いでいました。祐麟が祐天寺住職となった文政12年(1829)、祐天寺の稲荷社には神牌のみで神像が祀られていなかったことから、祐麟は勝願寺から奉持してきた稲荷神像を祐天寺の稲荷社に安置しました。この神像は勝願寺の稲荷神像と全く同じ神形のもので、仏師竹崎石見の作です。

参考文献
『寺録撮要』2

諸堂修復

2月20日に祐麟は増上寺へ、本堂等修復の願書を提出すると同時に寺社奉行への添簡を依頼し、即日、聞き届けられました。

2月22日、寺社役人の池島清右衛門を通して寺社奉行の脇坂中務大輔安董に、本堂、釣鐘堂、仏殿、阿弥陀堂、経蔵、書院、庫裏の修復届けを提出しました。御成の覚え書き、今までの修理の例書、絵図も提出しました。

2月29日、祐麟は安董に呼ばれ、本堂ほかの修復について尋ねられたので回答しました。帰寺したのち、役僧の順香に書付と絵図を清右衛門へ届けさせました。

3月11日に安董より、明12日四つ時(午前10時)に奉行所へ来るようにという呼状を受けましたが、祐麟は病気のため、順香を遣わしました。そのとき諸堂修復および作事仮小屋2か所の設置が許可されました。

参考文献
『寺録撮要』4

下馬札修復

2月22日、祐麟は寺社奉行の脇坂安董へ、表門と裏門の下馬札建替えを願い出ました。願書は増上寺役者の源流院と善定の添簡とともに、寺社役人の池島清右衛門に預けました。

5月16日に作事方見分役の松野東助、御徒目付の北條雄太郎らが来寺し、即日建て替えることになりました。

5月17日、安董のもとへ順香を遣わし、表裏両門の下馬札建替えが行われた旨を届け出ました。また増上寺にも同様のことを届け出ました。なお、表門下馬札の馬の字の点は今まで3つでしたが、このたび4つになり、江戸城大手門の格になりました。裏門は以前のとおり平川門の格です。

参考文献
『寺録撮要』5

月光院尊牌建替えの記録

3月、文政11年(1828)に7代将軍家継の生母である月光院(6代将軍家宣側室。享保5年「人物」参照)に従二位が贈られ、それに伴い文政12年(1829)に月光院尊牌建替えが許されたことについて、祐麟は『寺録撮要』にその経緯を記しました。

参考文献
『寺録撮要』3

常念寺、名号軸を再表具

常念寺、名号軸を再表具

参考文献
祐天上人絵像付き名号軸裏書・『常念寺寺先祖代々日記』(常念寺)

天然寺名号石塔、建立

5月、山形天然寺(山形県山形市)に祐天上人名号石塔が建立されました。天然寺15世智宣によるものです。石塔には世話人となった念仏講の人々の名が刻まれています。

参考文献
祐天上人名号石塔(天然寺)

祐麟、諸経を書写

5月、祐麟は『観無量寿経』を書写しました。また6月17日には『無量寿経』を書写しました。経題から八方上までは祐天寺2世祐海の筆で、そのあとは祐麟が引き継いで書写したことが奥書に記されています。
参考文献 『観無量寿経』、『無量寿経』奥書
二十五菩薩来迎図、修補

6月15日、祐麟は「二十五菩薩来迎図」を修補しました。阿弥陀三尊と諸菩薩のほかに化仏(人々を救うために姿を変えて現れた仏)と楼閣が描かれた上品上生の来迎図で、右上には帰り来迎が描かれている、珍しい図柄です。

参考文献
二十五菩薩来迎図裏書

二十五菩薩来迎図裏書

8月、仙台願行寺(仙台市宮城野区)に祐天名号付き餓死者供養塔が建立されました。この年は天明の大飢饉(天明3年「事件・風俗」参照)で亡くなった人々の50回忌にあたることから、願行寺で大施餓鬼供養が行われ、その際に建てられた供養塔です。施餓鬼会導師は、願行寺の本寺である正雲寺の良真が勤めました。

参考文献
祐天名号付き餓死者供養塔(願行寺)

十夜念仏を書院で修行

10月9日、本堂修復中のため、14日に予定されている十夜念仏を書院の仮仏間にて修行する旨を、順香を遣わして寺社奉行の脇坂安董へ届けました。寺社役人の池島清右衛門が応対し、さっそく許可の旨が通達され、増上寺役所へも届け出ました。

参考文献
『寺録撮要』4

瀬川、逝去

閏11月29日、将軍家斉お附き老女の瀬川が79歳で逝去し、祐天寺に分骨され、祠堂金100両が納められました。法号は高政院殿仁量慈寛大姉です。

瀬川は新発田藩(新潟県)溝口家(「説明」参照)の出身で、祐天上人坐像宮殿の修補(天保4年「祐天寺」参照)の際に、同じく家斉お附き老女の飛鳥井とともに施主となるなど、祐天寺とゆかりの深い人物でした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『新発田藩史料』1藩主篇(新発田市史資料、新発田市史編纂委員会編、新発田市史刊行事務局、1965年)

祐東、遷化

12月2日、祐天寺9世祐東が63歳で遷化しました。法号は南蓮社西誉上人北阿祐東大和尚です。

祐東は祐天寺6世祐全の弟子となり、寛政9年(1797)に大野善導寺(福井県大野市)14世として入院しました。その5年後の享和3年(1803)9月に善導寺を退院して、同年11月7日に祐天寺9世となり、文政12年(1829)9月15日に隠居しました。

また、この年は祐東の弟子たちも相次いで遷化しています。12月14日に浦賀仰信寺(現存せず)の祐田が遷化しました。法号は泉蓮社呑誉上人納阿祐田和尚です。続く27日には祐肇が遷化しました。法号は弘蓮社宜誉教善祐肇和尚です。祐肇は『本堂過去霊名簿』に「奥州磐城仁井田門学院倅」とあり、門学院は、祐東の実家と言われる下仁井田諏訪神社(福島県いわき市)の別当寺院でした。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』、「新田家所蔵古文書」、『善導寺の歴史』(武田松次郎、善導寺、1963年)

瑞泰院常念仏堂の記録

祐麟はこの年、安永6年(1777)3月に行われた常念仏堂建替えについて調査しましたが、記録が残っていなかったため、今年66歳になる塩田可蔵に問い合わせました。可蔵の話から、毛利家から200両の寄進があり、有馬家からも寄進があったこと、常念仏堂建替えの総費用が700両であったこと、また明和6年(1769)に建立された常念仏堂が武家屋敷の長屋造りの建物であったのを、安永6年に仏殿として建て替えたことなどがわかりました。

参考文献
祐麟はこの年、安永6年(1777)3月に行われた常念仏堂建替えについて調査しましたが、記録が残っていなかったため、今年66歳になる塩田可蔵に問い合わせました。可蔵の話から、毛利家から200両の寄進があり、有馬家からも寄進があったこと、常念仏堂建替えの総費用が700両であったこと、また明和6年(1769)に建立された常念仏堂が武家屋敷の長屋造りの建物であったのを、安永6年に仏殿として建て替えたことなどがわかりました。

説明

溝口家と祐天寺

新発田藩の溝口家と祐天寺との関係は、将軍家斉お附き老女の瀬川が信仰を寄せたことから始まったと推測されます。瀬川は、新発田藩7代藩主溝口直温の甥に当たる溝口慎勝の娘で、両親の法号を祐天寺に納めています。
そしてこれ以降、9代藩主直侯の正室.姫と継室布喜姫、そして11代藩主直溥の正室愛姫の法号が金14両とともに納められます。さらに金1,000疋とともに、10代藩主直諒や直溥の早世した子どもたちの法号も納められていることから、溝口家の女性たちが祐天寺へ寄せた信仰の深さがうかがえます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『新発田藩史料』1

寺院

説行、知恩院に住す

2月2日、鎌倉光明寺(神奈川県鎌倉市)87世の説行が、台命により知恩院67世となり、翌年4月14日、大僧正に任じられました。説行は同7年(1836)12月12日、在住5年をもって辞山したのちは新善光寺(京都市下京区)に13年間隠棲し、嘉永3年(1850)に遷化しました。

参考文献
『知恩院史』

事件

鼠小僧、処刑される

8月、盗賊次郎吉が、江戸市中引回しのうえ、小塚原(荒川区)で磔にされ、浅草にて首をさらされました。98か所、122回に及ぶ犯行で盗んだ金の合計は3、000両以上。盗みの特徴は犯行先のほとんどが武家屋敷であったことで、人を傷つけることはいっさいなく、物品などには手をつけずに金だけ盗んだと言われています。いつも屋根から入り天井裏から降りてくるので、鼠のようだというところから、いつしか「鼠小僧」の異名で呼ばれるようになりました。

処刑当日、次郎吉が引き回される沿道は、噂の盗賊をひと目見ようと詰め掛けた人々であふれました。薄化粧を施した次郎吉は、黒麻帷子の更紗に八帯を締め、うっすらと笑みを浮かべていたと言います。しかし、丸顔であばたもあり、色白で目は小さく、世間を騒がせた悪党という雰囲気はまるでなかったそうです。

後年、鼠小僧次郎吉の盗賊ぶりははさまざまな伝説となり、講談『鼠小僧次郎吉』や歌舞伎『鼠小紋東君新形』などでは弱きを助け強きをくじく庶民のヒーロー、「義賊」として語り継がれていくこととなったのです。しかし実際の次郎吉は、確かに武家屋敷を中心とした盗賊ではあったものの、「義賊」ではなかったようです。

寛政年間の中期(1795)頃に江戸で生まれ、鳶人足(または建具職人とも)として生計を立てていた次郎吉は、博打好きが高じて博徒となり、文政6年(1823)頃から盗みを働くようになったと言います。実は、それまでも2度ほど盗みに入ろうとしたところを捕まっているのですが、うまく町奉行をだまし一度は中追放(江戸10里四方の立入禁止)、再度捕まったときには前科を隠して放免となっていたそうです。天保3年5月、松平宮内少輔の屋敷に忍び込んだところを再三捕らえられ、とうとう処刑されることになったのです。享年は30歳半ば過ぎほどで、約10年間に及ぶ泥棒稼業で得た金は博打や飲食などに使い込んでいました。

現在、次郎吉の墓は処刑地の小塚原跡地にある小塚原回向院と、本所回向院(墨田区)にあります。長年捕まらなかった強運にあやかろうと、回向院では次郎吉の墓が建てられた当時から、その墓石を削ってお守りとする風習があったそうです。現在は墓石のかけらを持っていると試験に合格できるなどと言われており、かけらを削り取るための「お前立ち」が新たに建てられています。

参考文献
『歴史への招待』9(藤根井和夫編、日本放送出版協会、1980年)、『甲子夜話』三編4(東洋文庫421、松浦静山、平凡社、1983年)、「泥棒の話」(三田村鳶魚、『三田村鳶魚全集』第14巻、中央公論社、1975年)

出版

『春色梅児誉美』

為永春水(天保14年「人物」参照)の代表作『春色梅児誉美』の刊行がこの年から始まりました。

物語は、遊女屋「唐琴屋」の養子の夏目丹次郎が奸計にはまり借金を背負わされて身を隠しているところに、恋仲の芸者米八が訪ねてくる場面から始まります。米八は丹次郎の窮状を見かねて婦多川の羽織芸者となって貢ぎ、また唐琴屋の娘で丹次郎の許嫁であったお長も家出して娘義太夫となって丹次郎に貢ぎ、さらに米八の朋輩芸者仇吉も丹次郎と深い仲となって貢ぐという、丹次郎を巡る米八・お長・仇吉の複雑な四角関係が物語の軸となっています。やがて丹次郎が武家の落胤とわかり、家督を相続して、お長を正妻に米八を側室とし、大団円を迎えます。

丹次郎とそれぞれの女性たちとの会話で表現される甘美な逢瀬の場面が、江戸の市民から熱狂的な歓迎を受けました。恋する男のために義理と意気地を競い合い、積極的に生きる3人の女性の姿に共感する読者が多かったのでしょう。

参考文献
『春色梅児誉美』(日本古典文学大系64、中村幸彦校注、岩波書店、1962年)、『愛に生きた 江戸の女 明治の女』(細窪孝、蕗薹書房、2000年)、『古典の事典』14(古典の事典編纂委員会、河出書房新社、1986年)

人物

村田清風 天明3年(1783)~安政2年(1855)

長州藩(山口県)天保改革の指導者として知られる村田清風は、長門国三隅村(山口県長門市)に、藩士村田光賢の長男として生まれました。通称は亀之助と言いましたが、物覚えが悪かったため、同じ塾に通う子どもたちからは「どん亀」と呼ばれていたそうです。しかし、勉学が嫌いではなかったようで15歳のときに藩校明倫館に入学し、17歳で一度退館しますが20歳で再入学しています。24歳のときには成績優秀のため藩から学費を出してもらえる「御養書生」となり、26歳で江戸藩邸において9代藩主毛利斉房に仕えました。明倫館での評判を知る斉房は、当時すでに行き詰まっていた藩の財政改革を断行するため、清風の学識の高さに期待を掛けていたと言います。しかし、清風が仕えてからわずか数か月で斉房は逝去。以後、清風は13代藩主敬親まで5人の藩主に仕えることになります。

文政2年(1819)、父の死により家督を継いだ清風は、名を四郎左衛門と改め、御用所右筆に任じられました。36歳のときです。その後も要職を歴任し、天保2年(1831)の天保大一揆(天保2年「事件・風俗」参照)後には実務役人の中の最高位にあたる当役用談役に抜擢されました。このとき清風は、藩政改革の草案である『此度談』を建白し、「苛政により民から財を奪っても怨嗟の声が満ちるばかりである。人の上に立つ者は自ら倹約して民を指導し、仁愛の心で統べれば、民も困難に耐えて藩主に付いてくるであろう」と説いたのです。しかし、この建白は受け入れられず、失望した清風は翌3年に辞任しました。

再び清風が藩に出仕を求められたのは、敬親が藩主に就任した天保4年(1833)のことです。地江戸両仕組掛に任じられると、天保11年(1840)7月に行われた藩庁大会議を経て本格的な藩政改革に着手しました。清風は徹底的な倹約のほかに、中継交易事業の展開、藩士に課していた税金の緩和などの改革を行いました。一方で清風は、生活困窮者への出産・育児を援助する制度も実施しており、かつて清風が唱えた「仁愛の心」で民を統べることも忘れませんでした。また、この制度を作ったのは、清風自身の子どもが非常に病弱であったためではないかと言われています。しかし、藩士たちが抱える大量の借財整理のために出した「公内借三十七カ年賦皆済仕法」に対する貸主からの反発が強く、また幕府が藩の専売取り締まりを行ったために藩財政は困窮します。改革に対して庶民からも非難の声が高まり、清風は弘化元年(1844)に再び辞任しました。

辞任後も、清風が持つ対外防備策などの思想は受け継がれ、幕末の雄藩となる長州藩の礎を築き、彼への威信は衰えることがありませんでした。安政2年には、周布政之介に請われて安政の改革に携わることになりますが、奉職してわずか4日後に脳卒中のために逝去しました。享年73歳でした。

参考文献
『義なくば立たず』(真鍋繁樹、講談社、1996年)、『村田清風全集』上(山口県教育委員会編集・発行、1961年)、『朝日日本歴史人物辞典』、『国史大辞典』
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