明顕山 祐天寺

年表

天保02年(1831年)

祐天上人

宗徳院、逝去

3月13日、新発田藩(新潟県)9代藩主溝口直侯の正室である宗徳院が逝去し、菩提寺の駒込吉祥寺(文京区)に葬られました。享年56歳でした。また、法名(宗徳院殿壽山良穏大姉)は祐天寺にも納められています。
宗徳院は名を布喜姫といいます。公家の久世通根の息女として生まれ、寛政11年(1799)に直侯のもとへ嫁ぎました。宗徳院は両親の法名も祐天寺に納めています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『新発田藩市史資料』第一巻 新発田藩史料(1)藩主篇(新発田市史編纂委員会篇、新発田市史刊行事務局、1965年)

結衆部屋などの作事

結衆部屋や便所、廊下などの雨漏りがひどく、寺務や法要に支障が出ていました。そこで祐麟は3月25日に、建て替える場所の絵図を添えた建て替えに関する願書を、寺社奉行の脇坂中務大輔安董に差し出しました。

4月17日、安董からの呼状により祐麟が直参したところ、「見分の者を差し遣わす」と仰せ渡されました。

見分の当日である23日、検使らは祐麟の立ち会いのもとで見分を行いました。検使らは先に提出された願書と絵図のとおりであったことを確認し、そのことの証文となる一札などを祐麟に提出させました。

5月18日、建て替え許可の通達を受け、増上寺役所へも作事許可の件を報告しました。19日には新地奉行の大岡靭負と御鳥見の山内助次郎へ作事届書を提出し、翌日から古い建物が取り壊されました。

6月15日、上棟式が行われました。初めに棟梁の五郎吉および諸職人が麻裃で祈念したのち、本堂の祐天上人御影前で香偈、三宝礼、護念経、念仏回願、さらに棟札前にて香偈、三礼、洒水、護念経、念仏一会を修しました。参詣の道俗へ十念を授け、直筆の守名号1、000幅を施与し、投げ餅、蒔き銭333文を施しました。また、棟梁らにも十念を授与し、赤飯、酒、肴菜3菜の料理を出しました。

建て替え作事は7月15日までにすべて終わり、四奉請と『阿弥陀経』にて回向しました。

10月13日、安董のもとへ役僧順香を遣わし、作事が終了したことを報告しました。

参考文献
『寺録撮要』5

居休屋をたたむ

瑞泰院常念仏堂(位牌堂)の居休屋は、留守居役がいなくなったあと(文政4年「祐天寺」参照)荒廃していました。祐麟は浅草幡随院(現在は小金井市に移転)36世順良(祐水の弟子)に内談して、居休屋をたたむことにしました。その届書を、増上寺役所の添簡とともに寺社奉行の脇坂安董のもとへ持参して、役人の竹内喜平に提出しました。

5月18日、寺社奉行より居休屋をたたむ許可が下りたため、翌日に新地奉行の大岡靭負と御鳥見衆駒場御用屋敷の山内助次郎へ使僧を遣わし、その旨を届け出ました。

参考文献
『寺録撮要』2

伝法書、書写

6月、祐麟は『難遂往生機』と『末代念仏授手印』、そして『領解末代念仏授手印鈔』を書写しました。これらの書は浄土宗の教えの神髄を伝えるための法会「五重相伝会」で相伝される伝法書です。

『難遂往生機』は法然上人の著作で『往生記』とも呼ばれ、五重の教えのうちの「初重」に当たります。『末代念仏授手印』は浄土宗第2祖の聖光上人の著作で「二重」、『領解末代念仏授手印鈔』は浄土宗第3祖の良忠上人の著作で「三重」に当たります。

祐麟が書写した伝法書は、増上寺開山の聖冏上人が書写したものをさらに書写したもので、祐麟はこれらの書を、祐天寺の秘宝として永く受け継ぐように指示しています。

参考文献
『難遂往生機』奥書、『末代念仏授手印』奥書、『領解末代念仏授手印鈔』奥書

千部修行

6月に寺社奉行へ、千部修行の執行中に使用する仮日除と水茶屋、仮番所の作事の請書を提出しました。寺社奉行から許可が下りると、新地奉行と御鳥見役へも同様の届書を提出し、7月16日より25日まで千部修行を執り行いました。

7月26日、千部修行が済んだので、仮日除と水茶屋、仮番所を取り払い、その旨を書いた届書を寺社奉行へ提出しました。

参考文献
『寺録撮要』3

いく、葬儀

11月4日、9月に亡くなった3代目山崎喜兵衛の妻いくの葬儀に際し、祐天寺に回向料として金1両、所化への志として金1朱が納められました。

山崎家は寛延元年(1748)頃に初代喜兵衛が本家から独立して、農業のかたわら質屋を開業したことに始まります。安永5年(1776)にはしょう油の製造を始め、屋号を「∧キ」(※やまき)としました。3代目喜兵衛のときに江古田村(中野区)丸山組の名主を任され、幕末まで世襲していきます。

山崎家には祐天、祐海、祐東の各上人の名号軸3幅(中野区指定文化財)が伝わっていました。祐天上人名号軸の裏には真筆である旨や、表具に祐天上人が常用していた水引の戸張が使われていること、祐天上人の100回忌に山崎家へもたらされたことなどが、祐東によって記されています。また、祐海名号軸の包み紙には、祐東から譲り受けたことと、子孫に至るまで大切にするようにと、山崎家の3代目と4代目によって書かれています。祐東名号軸は本人の裏書から、山崎家で揮毫したことがわかります。

また、文化14年(1817)に執り行われた4代目喜兵衛の妻ゑんの葬儀では、祐天寺に1両1分の回向料が納められ、その1周忌では祐東に志が納められました。

参考文献
『祐天上人名号裏書』・『祐東名号軸裏書』(中野区立歴史民俗資料館蔵)、『山崎家文書』1(多摩文化史研究会編、中野区教育委員会、1992年)、『山崎家史料集』(平野實編、山崎喜作、1966年)、『しいのき』53(中野区立歴史民俗資料館編集・発行、2007年)

祐恩、遷化

12月23日、祐恩が遷化し祐天寺に葬られました。法号は真蓮社報誉成阿祐恩和尚です。祐恩は百萬遍知恩寺(京都市左京区)54世祐水の弟子で、祐麟の兄弟弟子です。増上寺の扇間席に列していました。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』

御室社名号碑、建立

この年、御室社(八王子市)の入口に祐天上人名号石碑が建立されました。石碑には名号のほかに、胎蔵界大日真言の「ア ビ ラ ウン ケン」の種子が刻まれています。地元では「天保の頃、大水、大風、山崩れ、飢饉と良くないことが続いたので、祐天さまが安寧祈願に納めてくださった。いぼ取りにもご利益がある」と言われてきました。

参考文献
祐天上人名号石碑(御室社)、『とんとん昔話』(菊地ただし、東京新聞出版局、1998年)

正満寺へ名号軸、奉納

この年、綿内正満寺(長野県長野市)に、同寺12世察随より祐天上人名号軸が奉納されました。名号の下には祐天上人の肖像が描かれています。

参考文献
『寺院財産目録』(正満寺)

寺院

念成、増上寺に住す

4月24日、小石川伝通院(文京区)53世念成が増上寺61世となり、大僧正に任じられました。念成は増上寺54世念海の弟子です。在任中の天保4年(1833)12月に安国殿の修理を終え、黒本尊阿弥陀如来立像の遷座を行いました。念成は天保7年(1836)5月に辞職を申請し、同月19日に隠退。同9年(1838)7月に遷化しました。


過分の葬儀、禁止

4月に幕府が、農民や町人の身分不相応な葬儀などを禁止するお触れを出しました。

農民や町人は戒名に院号や居士号を付けることや、墓所に壮大な石碑を建立することが禁止され、墓碑の高さも台石を含め4尺(約121センチメートル)までと決められました。ただし、既成の墓石は現状のまま認められ、修復の際に院号および居士号を取り除き、石碑を縮小するように申し渡しています。また、由緒ある家柄の者や財力のある者でも、僧侶を10人以上招いて葬儀を行ってはならず、布施も分相応にするように命じています。

参考文献
『御触書天保集成』下(高柳真三ほか編、岩波書店、1941年)、『藤岡屋日記』1(近世庶民生活史料、藤岡屋由蔵、鈴木棠三ほか編、三一書房、1987年)、『大本山増上寺史』本文編

事件

長州藩の天保大一揆

7月、周防国吉敷郡小鯖村(山口県山口市)の皮番所で起こった騒動をきっかけに、長州藩(同県)全域にわたる大一揆が起こりました。

皮番所とは、稲穂が出る時期に田のそばを皮革が通ると凶作になるというこの地域の俗信から、皮革が通らないように監視するため農民たちが設置したものです。ここを通り掛かった産物方御内用御用達石見屋嘉左衛門が皮革を持っているのを発見した農民たちは、石見屋がわざと凶作にして米の値段をつり上げようとしていると思い激怒し、石見屋の屋敷の打ち壊しに走ります。これが発端となり、特権商人や役人に対する農民たちの不平・不満が、一揆となって爆発したのです。

この一揆は、石見屋が取り調べを受けた三田尻から始まって山口、小郡へ、翌月には美禰、徳地、船木、さらに日本海側の大津、熊毛、阿武へと広がっていきました。参加人数は約13万人と言われ、長州藩始まって以来の大暴動です。暴動民のあまりの多さに、鎮圧に駆け付けた役人も手が付けられなかったそうです。

農民たちの不満の背景には、文政12年(1829)に藩が出した産物会所政策があります。産物方御内用御用達に任命された一部の商人や役人のみが領内外の産物を専売買できるというこの政策により、農民たちは安く商品を買い上げられ、暮らしは貧しくなる一方だったのです。そのため一揆勢は、この政策の取りやめを要求。さらに特徴的なのは、村役人を今後は選挙により決めるという、「自由」を求めた点です。

11月に藩は彼らの要求を全面的に聞き入れ、ようやく一揆は鎮まりました。そして、この一揆による小さな改革は藩政にも影響を与え、やがて長州藩の藩政改革へと昇華されていくのです。

参考文献
「長州藩と水戸藩」(井上勝生ほか、『岩波講座日本歴史』12近世4、岩波書店、1976年)、『山口県の歴史』(県史シリーズ35、三坂圭治、山川出版社、1971年)、『幕末の長州』(中公新書86、田中彰、中央公論社、1965年)、『新編物語藩史』9(児玉幸多ほか監、新人物往来社、1976年)、『日本名所風俗図会』10(森修編、角川書店、1980年)

風俗

天保山の築山

3月、大坂への船の出入りを便利にするために、安治川の川床の土砂をさらう工事が始まりました。安治川ではこれまでもたびたび川ざらえが行われていましたが、この年に始まった工事は大変大掛かりなものとなり、合計で約10万人もの人々が携わって、翌年の12月にようやく工事が終わります。このとき川床から出た土砂で築かれたのが天保山です。

安治川の西側にある八幡屋新田(大阪市港区築港付近)に周囲1、000間(約1.8キロメートル)余りの島を築き、そこに高さおよそ10間、周囲100間の山が築かれました。幕府はこの山を廻船の目標とし「目標山」と命名しましたが、市民は天保時代にできた山だからと「天保山」と呼びました。山頂からの眺めが素晴らしく、また山中には桜や松が植えられるなど景観も美しく、市民たちから絶好の行楽地として親しまれたのです。

後年に灯台が造られて、天保山は「目標山」としての役割も十分に担いますが、安政元年(1854)にロシア艦隊が天保山沖に現れると、河口防衛のために砲台が築かれ景勝は損なわれました。

現在、天保山は地盤沈下などのために低地化し、標高わずか4.53メートルの「日本一低い山」となっています。

参考文献
「長州藩と水戸藩」(井上勝生ほか、『岩波講座日本歴史』12近世4、岩波書店、1976年)、『山口県の歴史』(県史シリーズ35、三坂圭治、山川出版社、1971年)、『幕末の長州』(中公新書86、田中彰、中央公論社、1965年)、『新編物語藩史』9(児玉幸多ほか監、新人物往来社、1976年)、『日本名所風俗図会』10(森修編、角川書店、1980年)

芸能

『六歌仙容紋』上演

3月、中村座で4代目中村歌右衛門が江戸風に改作した歌舞伎舞踊『六歌仙容紋』が上演されました。現在の『六歌仙容彩』の原型となるもののようです。六歌仙とは『古今和歌集』において紀貫之が優れた歌人として名を挙げた僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・大伴黒主・小野小町の6人のことで、平安時代の六歌仙が江戸時代の感覚で踊るという、しゃれ心を持った踊りです。

寛政元年(1789)に嵐雛助が喜撰法師を演じた際に、花道から出るときの出方として「腰衣ですいつつ(徳利)をかたげて出た」という記事が残っていますが、この演出は現代まで引き継がれています。

参考文献
『歌舞伎年表』、『歌舞伎登場人物事典』(河竹登志夫監、白水社、2006年)

人物

寺門静軒 寛政8年(1796)~明治元年(1868)

静軒というのは儒学者としての号で、通称は弥五左衛門と言います。父の寺門勝春は水戸藩(茨城県)藩士でしたが、母が側室であったため、静軒は水戸ではなく江戸で育てられました。12歳のときに母を、その翌年には父を亡くしますが、父が静軒のために御家人株(金銭で売買された御家人の家格)を用意していたため、静軒は武士の子どもとして何不自由なく母方の祖父母のもとで育てられました。

折衷学派の儒者山本緑陰の門下に入って本格的に儒学を学び始めようとしていた17、8歳頃、国許の異母兄が出奔して江戸に出てくる騒ぎが起きました。静軒は父が残してくれた御家人株を売って、その兄を経済的に支えたため生活が困窮し、入門したばかりの緑陰のもとを離れなければならなくなります。そこで学費が無料であった上野寛永寺(台東区)の勧学寮で学び続けることにしますが、ここで培った仏教思想への深い洞察力と漢学などの豊富な知識は、のちに作家となった静軒の強みとなりました。

儒者として生計を立てるため駒込(文京区)に開いた塾を、文政9年(1826)には三浦坂(台東区)に移転して克己塾と名付け、水戸から妻を迎えたのは静軒が30歳過ぎのことです。またこの頃、父親の跡を継ごうと水戸藩への仕官を試みますが、朱子学を藩の学問とする水戸藩が折衷学派の静軒を採用することはありませんでした。家族のみならず兄の生活の面倒まで見ていた静軒は、家塾経営の収入だけでは生活が苦しくなり、体調も思わしくなかったことから、病床でもつれづれに書きつづることのできる『江戸繁昌記』(天保6年「出版・芸能」参照)の執筆を思い付きます。自分が生まれ育った江戸の風物への愛情にあふれた本書は、天保3年(1832)に出版されるやいなや爆発的に売れ、静軒は一躍流行作家となりました。また同年には長女マチが生まれ、静軒につかの間の幸せが訪れました。

しかし、天保5年(1834)に待望の長男駒太郎が生後まもなく亡くなり、その翌年には『江戸繁昌記』が風俗を乱すとの理由から発売差留の処分を受けます。それでも静軒はひそかに続編を刊行し続けたため、天保13年(1842)にはついに武家に奉公することを禁じる「武家奉公御構」という処分を受けました。これより以後は武家に奉公できないため、浪人として生きるよりほかにありませんでした。

静軒は筆禍を機に家塾をたたみ、放浪の旅に出ます。それでも静軒は『江戸繁昌記』の作者として有名になっていたことから各地で歓迎され、地方の文人と親交を深め、また多くの門人にも恵まれました。

一生を通じて家族との縁は薄かったと思われる静軒ですが、生涯最後の1年は娘マチの嫁ぎ先である根岸家に身を寄せます。娘婿の三蔵は静軒を師と仰ぎ、その学識と人格を慕っていたと言われ、静軒は心穏やかな日々を送りました。明治元年3月24日、娘夫婦が見守る中、73年の生涯を終えました。

参考文献
『江戸繁昌記の世界』(水戸市立博物館編集・発行、1996年)、『寺門静軒』(永井啓夫、理想社、1966年)、『近世文学史』(日野龍夫著作集3、日野龍夫、ぺりかん社、2005年)
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