結衆部屋や便所、廊下などの雨漏りがひどく、寺務や法要に支障が出ていました。そこで祐麟は3月25日に、建て替える場所の絵図を添えた建て替えに関する願書を、寺社奉行の脇坂中務大輔安董に差し出しました。
4月17日、安董からの呼状により祐麟が直参したところ、「見分の者を差し遣わす」と仰せ渡されました。
見分の当日である23日、検使らは祐麟の立ち会いのもとで見分を行いました。検使らは先に提出された願書と絵図のとおりであったことを確認し、そのことの証文となる一札などを祐麟に提出させました。
5月18日、建て替え許可の通達を受け、増上寺役所へも作事許可の件を報告しました。19日には新地奉行の大岡靭負と御鳥見の山内助次郎へ作事届書を提出し、翌日から古い建物が取り壊されました。
6月15日、上棟式が行われました。初めに棟梁の五郎吉および諸職人が麻裃で祈念したのち、本堂の祐天上人御影前で香偈、三宝礼、護念経、念仏回願、さらに棟札前にて香偈、三礼、洒水、護念経、念仏一会を修しました。参詣の道俗へ十念を授け、直筆の守名号1、000幅を施与し、投げ餅、蒔き銭333文を施しました。また、棟梁らにも十念を授与し、赤飯、酒、肴菜3菜の料理を出しました。
建て替え作事は7月15日までにすべて終わり、四奉請と『阿弥陀経』にて回向しました。
10月13日、安董のもとへ役僧順香を遣わし、作事が終了したことを報告しました。
瑞泰院常念仏堂(位牌堂)の居休屋は、留守居役がいなくなったあと(文政4年「祐天寺」参照)荒廃していました。祐麟は浅草幡随院(現在は小金井市に移転)36世順良(祐水の弟子)に内談して、居休屋をたたむことにしました。その届書を、増上寺役所の添簡とともに寺社奉行の脇坂安董のもとへ持参して、役人の竹内喜平に提出しました。
5月18日、寺社奉行より居休屋をたたむ許可が下りたため、翌日に新地奉行の大岡靭負と御鳥見衆駒場御用屋敷の山内助次郎へ使僧を遣わし、その旨を届け出ました。
6月、祐麟は『難遂往生機』と『末代念仏授手印』、そして『領解末代念仏授手印鈔』を書写しました。これらの書は浄土宗の教えの神髄を伝えるための法会「五重相伝会」で相伝される伝法書です。
『難遂往生機』は法然上人の著作で『往生記』とも呼ばれ、五重の教えのうちの「初重」に当たります。『末代念仏授手印』は浄土宗第2祖の聖光上人の著作で「二重」、『領解末代念仏授手印鈔』は浄土宗第3祖の良忠上人の著作で「三重」に当たります。
祐麟が書写した伝法書は、増上寺開山の聖冏上人が書写したものをさらに書写したもので、祐麟はこれらの書を、祐天寺の秘宝として永く受け継ぐように指示しています。
6月に寺社奉行へ、千部修行の執行中に使用する仮日除と水茶屋、仮番所の作事の請書を提出しました。寺社奉行から許可が下りると、新地奉行と御鳥見役へも同様の届書を提出し、7月16日より25日まで千部修行を執り行いました。
7月26日、千部修行が済んだので、仮日除と水茶屋、仮番所を取り払い、その旨を書いた届書を寺社奉行へ提出しました。
11月4日、9月に亡くなった3代目山崎喜兵衛の妻いくの葬儀に際し、祐天寺に回向料として金1両、所化への志として金1朱が納められました。
山崎家は寛延元年(1748)頃に初代喜兵衛が本家から独立して、農業のかたわら質屋を開業したことに始まります。安永5年(1776)にはしょう油の製造を始め、屋号を「∧キ」(※やまき)としました。3代目喜兵衛のときに江古田村(中野区)丸山組の名主を任され、幕末まで世襲していきます。
山崎家には祐天、祐海、祐東の各上人の名号軸3幅(中野区指定文化財)が伝わっていました。祐天上人名号軸の裏には真筆である旨や、表具に祐天上人が常用していた水引の戸張が使われていること、祐天上人の100回忌に山崎家へもたらされたことなどが、祐東によって記されています。また、祐海名号軸の包み紙には、祐東から譲り受けたことと、子孫に至るまで大切にするようにと、山崎家の3代目と4代目によって書かれています。祐東名号軸は本人の裏書から、山崎家で揮毫したことがわかります。
また、文化14年(1817)に執り行われた4代目喜兵衛の妻ゑんの葬儀では、祐天寺に1両1分の回向料が納められ、その1周忌では祐東に志が納められました。
12月23日、祐恩が遷化し祐天寺に葬られました。法号は真蓮社報誉成阿祐恩和尚です。祐恩は百萬遍知恩寺(京都市左京区)54世祐水の弟子で、祐麟の兄弟弟子です。増上寺の扇間席に列していました。
この年、御室社(八王子市)の入口に祐天上人名号石碑が建立されました。石碑には名号のほかに、胎蔵界大日真言の「ア ビ ラ ウン ケン」の種子が刻まれています。地元では「天保の頃、大水、大風、山崩れ、飢饉と良くないことが続いたので、祐天さまが安寧祈願に納めてくださった。いぼ取りにもご利益がある」と言われてきました。
この年、綿内正満寺(長野県長野市)に、同寺12世察随より祐天上人名号軸が奉納されました。名号の下には祐天上人の肖像が描かれています。