明顕山 祐天寺

年表

天保元年(1830年)

祐天上人

源察、遷化

2月20日、瀬田行善寺(世田谷区)20世源察が遷化しました。法号は光蓮社長誉上人心阿観道源察和尚です。

源察は祐天寺8世祐応の弟子で、祐天寺の念仏堂(瑞泰院常念仏堂)衆頭を勤めたのち、文化8年(1811)12月2日に行善寺の住職となりました。

参考文献
『行善寺資料』(行善寺)、『寺録撮要』2、『本堂過去霊名簿』

登瀬、逝去

3月4日、田中登瀬が逝去し、祐天寺に埋葬されました。法号は光誉操室貞信法尼です。

登瀬は、川瀬石町(中央区)に店を構える5代目米屋久右衛門こと田中正孝(文化11年「祐天寺」・「説明」参照)の妻で、丹波国久美浜(京都府京丹後市)の万屋忠七の娘です。米屋は大名家からの人足や奉公人の供給を請け負う、六組飛脚屋仲間の1つです。夫の正孝が文化11年(1814)に亡くなったのちは、一時的に登瀬が店を切り盛りしていました。

登瀬は『本堂過去霊名簿』に「当寺帰依不浅人」と書かれており、実父や兄など万屋の関係者の法号や位牌なども登瀬が施主となって祐天寺に納めていることから、登瀬と祐天寺との関係は非常に深いことがわかります。こうした登瀬の信仰は、親戚の田中佐治兵衛家(明治4年「祐天寺」参照)、宮井家、荻原家へと広がりました。

参考文献
田中家位牌、『本堂過去霊名簿』、「江戸における人宿の生成と発展―六組飛脚屋仲間米屋田中家を事例に―」(市川寛明、『東京都江戸東京博物館研究報告』第7号、2001年)

願生寺に万霊塔、建立

3月15日、高輪願生寺(港区)に祐天上人名号付き三界万霊供養塔が建立されました。願生寺16世祐玄の代のことです。元禄2年(1689)から天保元年3月15日までに亡くなった総計2、760人の無縁の霊が祀られています。

参考文献
三界万霊供養塔(願生寺)

明幻院・浄邦院の石塔と位牌

閏3月24日、楽宮(のちの12代将軍家慶の御台所)附きの梅岡が、楽宮が流産し祐天寺に葬られた2子(文化9年「祐天寺」参照)の石塔を建立するため来寺しました。廟所を見分した梅岡より「清雲院殿(将軍家斉の子息)の石塔よりは小さくするように」と仰せ付けられました。この際に祐麟は、2子に院号を差し上げるように勧め、「明幻院殿春玉露光大童子」「浄邦院殿玉池生蓮大童子」とそれぞれお授けして石塔を建立しました。

10月14日には江戸城西丸の於さまより明幻院・浄邦院の位牌が祐天寺に届けられました。この位牌は封印付きの箱に入れられ、中には位牌1基のほかに菊の御紋付きの小三方2つと真鍮の仏器6つが入っていました。開眼料として金1、000匹とお菓子代200匹が祐天寺に下賜されました。祐麟は位牌を天英院仏殿の脇壇へ安置し、開眼供養を行いました。

参考文献
『寺録撮要』2、『本堂過去霊名簿』

顕海、遷化

4月2日、金戒光明寺(京都市左京区)50世顕海が世寿62歳で遷化しました。祐天寺に納められた法号は祐蓮社明誉上人顕海大和尚ですが、『黒谷誌要』には聖蓮社成阿仏因と号したとあります。

顕海は明和6年(1769)、江州勢田(滋賀県大津市)で生まれました。顕海は祐水〔百萬遍知恩寺(京都市左京区)54世〕の弟子で、深川霊巌寺(江東区)25世を経て、文政3年(1820)に金戒光明寺の住職となりました。在住中は三門再建に着手しましたが、完成を見ぬまま遷化しました。

参考文献
顕海墓(金戒光明寺)、『本堂過去霊名簿』、『黒谷に眠る人びと』(北川敏於、金戒光明寺、1973年)、『浄土宗全書』20

近姫、逝去

4月22日、一橋家4代当主斉礼の正室近姫が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は観光院殿宝鬘妙曜大姉です。
近姫は寛政12年(1800)年に田安家3代当主斉匡の息女として生まれ、文政2年(1819)に斉礼に嫁ぎました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『徳川諸家系譜』

斉稷、逝去

5月2日、鳥取藩(鳥取県)13代藩主池田斉稷が逝去し、法号が祐天寺に納められました。法号は燿国院仁興隆徳大居士です。

斉稷は11代藩主治道の次男ですが、兄の12代藩主斉邦が早世し、まだ嫡子もいなかったことから、文化4年(1807)に跡を継ぎました。同14年(1817)に将軍家斉の12男乙五郎(斉衆)を婿養子に迎え、これを機に従四位上をたまわり、葵紋の使用を許されました。乙五郎は疱瘡に罹り薬の効なく逝去しますが、庶子の誠之助(のちの14代藩主斉訓)を嫡子とすることが許され、そのとき家斉の息女泰姫を誠之助の正室として迎えることも決まりました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『三百藩藩主人名事典』

『阿弥陀経』を書写

6月2日、祐麟は『阿弥陀経』を書写しました。経典の奥書には「経題以下7行目までが祐海の筆」とあり、祐天寺2世祐海が書写したあとを書き足して仕上げたことがわかります。

参考文献
『阿弥陀経』奥書

祐海坐像胎内に納骨

6月、祐海坐像の胎内に、祐海の遺骨の一部を納めました(元文2・文化5・文政12年「祐天寺」参照)。

参考文献
祐海遺骨包紙

資矩、逝去写

7月9日、日野資矩が逝去しました。法号は大巌院瑞誉心順祐寂です。

資矩は著名な歌人日野資枝の子息で、自らも歌人として生きました。著作に『詠集草』『先考御詠』などがあります。享和2年(1802)の大愚歌合に参加したことで光格天皇の勅点を差し止められ、和歌の師である閑院宮美仁親王から破門されるなど、冷遇も経験しました。

また、資矩は祐水に帰依し、晩年の文政10年(1827)に出家しました。祐水が遷化したときは深く嘆き悲しんだと伝えられています。資矩は祐水の菩提を弔うために7日ごとに『阿弥陀経』を書写し、霊前に供えました。その『阿弥陀経』7冊を1箱に取りまとめ、祐水の弟子香堂が由来を箱蓋裏に書いています(文化13年「祐天寺」参照)。

参考文献
『阿弥陀経』奥書および箱蓋裏書、「日野資矩の晩年の信仰―祐天寺蔵阿弥陀経箱についてー」(浅野祥子、『佛教文化学会紀要』11号、2002年)

梅岡、逝去

 9月16日、12代将軍家慶御簾中の楽宮喬子のお附きである梅岡が逝去しました。法号は常安院殿真誉性圓智鏡大姉です。明幻院・浄邦院の石塔建立のため、この年の閏3月に来寺した局です。

参考文献
『寺録撮要』2、『本堂過去霊名簿』

采姫、逝去

12月20日、秋月藩(福岡県)8代藩主黒田長舒(「説明」参照)の継室である采姫〔土佐藩(高知県)9代藩主山内豊雍の息女〕が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は慈明院殿普光清陰大姉です。采姫は安永4年(1775)8月7日生まれで、享年56歳でした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『山内家史料歴代公紀綱文集』下(山内家史料刊行委員会編集・発行、1999年)

忠善、逝去

12月17日、横須賀藩(静岡県掛川市)13代藩主西尾忠善が逝去し、祐天寺に法号が納められました。法号は高徳院殿傑山道寿大居士です。

忠善はのちに老中となった笠間藩(茨城県笠間市)15代藩主牧野貞長の4男として生まれ、天明2年(1782)先代藩主西尾忠移の養子となり忠移の長女を正室としました。藩の学問所である修道館を創設し、国学者の八木美穂を招聘して学問を奨励しました。また、領内の振興策として安房国(千葉県)から漁師を招いて漁法の一新を図り、刀工を抱え産業面に力を注ぎました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『三百藩藩主人名事典』

絵像、修補

この年に祐麟は、祐天上人80歳の絵像(享保元年「祐天寺」参照)と祐天上人臨終の絵像(享保3年「祐天寺」参照)、祐海78歳の絵像(宝暦9年「祐天寺」参照)の3幅を修補しました。

参考文献
『寺録撮要』1

説明

黒田家と祐天寺

秋月藩黒田家の祐天寺への信仰は、4代藩主長貞の正室である瑞耀院(豊姫)までさかのぼります。瑞耀院は自ら書写した『阿弥陀経』『観無量寿経』『無量寿経』を元文2年(1737)に祐天寺に奉納しました。実は瑞耀院の母〔米沢藩(山形県)4代藩主上杉綱憲の側室〕が、享保2年(1717)に米沢阿弥陀寺(現存せず)で始まった常念仏の開闢導師を祐天上人に依頼しており、瑞耀院は母の影響から祐天上人、祐天寺への信仰を篤くしていったと思われます。また、瑞耀院の信仰を受け継いだ黒田家の奥やお附きの者たちも、祐天寺に法号を納めるようになり、こうした信仰は幕末まで続いていきます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『窪田郷土史』(窪田郷土史編纂委員会編、窪田公民館、1983年)、『西蓮寺史』(伊藤龍豊、西蓮寺、1979年)

伝説

念仏の利益

3月2日、矢津(三重県松阪市)の百姓小坂半三郎の妻おかんが突然うつろな目で虚空をつかみ、うわごとを口走って暴れました。そして、その日の夕方「私は9年前に死んだ半六(半三郎の弟)だ。60年前に死んだ妙寿と46年前に死んだ浄光とともに、地獄の責めを受けて苦しんでいる。早く懇ろに供養してくれ」と叫び、倒れました。

半三郎をはじめ親類の者たちは松坂清光寺(同県同市)34世信岡に助けを求め、いったんは落ち着きますが、5月22日に再びおかんの様子がおかしくなりました。「われは吾妻のキツネである」と言い出したのです。そこで信岡は祐天上人の名号6枚を授け、「これをおかんの部屋の上下四方に1枚ずつ貼り付け、皆でおかんを囲んで百萬遍の念仏を称えなさい」と命じました。半三郎たちが言われたとおりにすると、おかんは正気に戻ったということです。

参考文献
『松阪の民話』(山田勘蔵編、松阪市立中央公民館、1977年)、『松阪の伝説』(夕刊三重新聞社編集部編、夕刊三重新聞社、1981年)

寺院

破戒僧の取り締まり

近年、酒肉、妻帯、女犯などによる僧侶の破戒が横行していました。ひどい僧になると、妻に置屋・揚げ屋(遊女や芸者を抱えておく店・客が置屋などから遊女などを呼んで遊興する店)を営ませ、自分の娘を芸妓にし、男子には魚屋をさせる者もいました。また、後家を犯し、その後家より数百金を取るというようなことも相次いでいました。

前年の12月に「僧侶取締布令」が出され、今年の春までに大坂の慈安寺を皮切りに大融寺、建国寺など30か寺ばかりの僧が召し捕られ、京都では妙心寺、知恩院などの僧が召し捕られました。犯した罪によりそれぞれ獄門・流刑・晒しなどの刑に処せられました。また、僧ばかりでなく、その妻子も召し捕られました。


顕了、再住

3月8日、増上寺前大僧正顕了が60世として同寺に再住しました(文政6年「寺院」参照)。顕了は5月に、自身の隠退の原因であり、香衣騒動のもととなった、坊中の香衣着用を停止しました(文政12年「寺院」参照)。

翌天保2年(1831)4月、重病となり隠退を願い出て15日に許可されましたが、その翌日に遷化しました。

参考文献
『浮世の有様』(日本庶民生活史料集成11、原田伴彦ほか編、三一書房、1970年)、『宝暦現来集』(山田桂翁、近世風俗見聞集7、森銑三ほか監、吉川弘文館、1982年)、『大坂町奉行と刑罰』(藤井嘉雄、清文堂出版、1990年)、『大本山増上寺史』本文編

事件

諸藩の藩政改革

この年から藩政改革に乗り出す藩が目立つようになります。なかでも、逼迫した財政の立て直しと、外国船の頻繁な来航から海防政策に力を入れる藩が多くありました。

水戸藩(茨城県)では9代藩主徳川斉昭(「人物」参照)が、藤田東湖(安政2年「人物」参照)をブレーンとして改革に着手。全領地に及ぶ検地や藩校弘道館の開館による文武両道の奨励、特産品の育成などを目標としました。しかし、この改革に保守派が強い抵抗を示したため藩内は2派に分裂し、結果として改革は失敗に終わっています。

肥前藩(佐賀県)では、鍋島直正が10代藩主に就任したのちに改革を始めました。質素倹約、殖産興業などを積極的に行った結果、直正就任当時に2万貫以上あった借金を、天保8年(1837)には8、200貫に減少させました。また直正は、オランダとの直接交易により得た利益で西洋の武器や蒸気船を大量に購入して西洋科学技術の研究を進めるなど、国力の増強にも努めています。

500万両もの借金があった薩摩藩(鹿児島県)では、10代藩主島津斉興の後見人として政権を握っていた8代藩主の重豪が財政改革に着手。自らの代わりとして調所広郷(嘉永元年「人物」参照)を改革の指導者に任じました。黒糖を藩の専売制にしたほか、町人からの借金を250年掛けて返済するという強硬な手段により、財政立て直しに成功します。弘化元年(1844)には50万両の備蓄ができたと言います。

この3藩での改革はやがて諸藩に影響を与え、同じように財政難にあえいでいた各藩で藩政改革が行われました。

参考文献
『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(藤谷俊雄、岩波書店、1968年)、「「おかげまいり」と「ええじゃないか」」(矢野芳子、『一揆』4生活・文化・思想、青木美智男ほか編、東京大学出版会、1981年)、『江戸の大変』(稲垣史生監、平凡社、1995年)、『週刊朝日百科 日本の歴史』82号(能登屋良子編、朝日新聞社、2003年)

風俗

お陰参りの大流行

閏3月、阿波国(徳島県)で始まった伊勢神宮(三重県伊勢市)への集団参宮は、やがて山陰、東海地方へも広まり、この年は400万人以上の参宮者が押し寄せました。その発端は、手習屋で学んでいた子どもたちが20~30人の集団で参宮に出掛けたことだと言われています。お陰参りは60年ごとに流行すると言われていたため、明和8年(1771)に流行してから59年経ったこの年、人々の間でお陰参りへの期待が高まっていたことも大きな要因でしょう。

今回のお陰参りの特徴は、何十人もの集団となり、服装を揃え、各々ひしゃくを持っていたことです。10月頃になってお陰参りはようやく鎮まりますが、その鎮まった地域では「お陰踊り」が流行し、これがやがて慶応年間(1865~1867)の「ええじゃないか」と呼ばれる騒動へと発展していきます(慶応3年「事件・風俗」参照)。

参考文献
『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』(藤谷俊雄、岩波書店、1968年)、「「おかげまいり」と「ええじゃないか」」(矢野芳子、『一揆』4生活・文化・思想、青木美智男ほか編、東京大学出版会、1981年)、『江戸の大変』(稲垣史生監、平凡社、1995年)、『週刊朝日百科 日本の歴史』82号(能登屋良子編、朝日新聞社、2003年)

出版

『嬉遊笑覧』

喜多村信節は幼い頃から和漢の書籍に通じ、異本を見つけては文字や文脈を照らし合わせ、自分なりの考証を加えて書きとめていました。その集大成とも言うべきものが本書です。取り上げられた項目は住居や容姿、芸能に関するものから飲食や草木など4、200以上にもなります。

例えば「ころ柿」の説明では「ころ柿乾たる柿をなべていふに非ず」と定説を否定してから、「宇治にて秋の初めに小き渋柿を採皮をむき蔕をとり縄につるし陰乾にしたるか円き故に転柿といふといへり」と、『雍州府志』(黒川道祐がまとめた江戸時代前期の京都地誌)の説を引用して解説しています。

このように引用に使われた書籍は和漢古今にわたり数百部と言われていますが、近世に書かれたものが多いことから、本書は江戸の風俗百科事典としての性格が強くなりました。

参考文献
『嬉遊笑覧』(喜多村信節、名著刊行会、1993年)、『古典の事典』13(古典の事典編纂委員会編、河出書房新社、1986年)』

人物

徳川斉昭 寛政12年(1800)~万延元年(1860)

徳川斉昭は水戸藩7代藩主治紀の3男として、江戸小石川藩邸(文京区)に生まれました。文化13年(1816)に父が逝去し、長兄の斉脩が8代藩主となりますが、病弱だったために嗣子のないまま33歳でこの世を去り、水戸藩内では継嗣争いが始まりました。

将軍家斉の子を迎えて、幕府から財政の援助を得ようとする藩の重臣たちに対し、藤田東湖や会沢正志斎などの下級藩士たちは「将軍家から養子を迎えるのは水戸家の伝統に反する」として斉昭を擁護しました。東湖たちの働きによりようやく斉昭が9代藩主となったとき、すでに斉昭は30歳になっていました。

就任後の斉昭は藩政改革に乗り出します。まず財政立て直しのために質素倹約を命じ、自ら率先して木綿の服を着ました。また、保守門閥派を排除して下級藩士を積極的に登用するとともに、藩校弘道館を創設し、水戸学を基盤とする藩士の教育にも力を入れました。水戸学は『大日本史』の編纂を通じて歴史や神道を結合させた学派でしたが、この頃には国家が危機に直面しているという「内憂外患」の世相を反映し、強烈な尊王攘夷思想(慶応元年「解説」参照)へと発展していました。水戸学に基づいて幕政を憂えた斉昭は、幕政改革の意見書「戊戌封事」を12代将軍家慶に提出しましたが、聞き入れられませんでした。さらに弘化元年(1844)には「甲辰の国難」と言われる蟄居謹慎処分を受け(弘化元年「事件・風俗」参照)、斉昭には以後6年間、藩政への関与が禁止されます。しかし、斉昭の働きは水戸学を広く天下へ知らしめ、外国からの脅威に対する軍備強化という意識を、幕府や諸藩へ印象付けていきました。

嘉永6年(1853)、ペリー来航を受けて幕府の海防参与に任じられた斉昭は、鎖国攘夷を主張しました。しかし実は斉昭は、万が一戦争になった場合の軍備を整える準備期間を作るために攘夷を主張したと言われています。ところが結局、幕府はアメリカ軍艦の威力に押されて開国に踏み切り、斉昭は海防参与を辞任。そのわずか3か月後に再び軍制参与を命じられたものの、時代はしだいに斉昭を必要としなくなっていきました。

安政5年(1858)の「日米修好通商条約」調印を知った斉昭は、江戸城へ登り、勅許を得ずに調印した井伊直弼は大罪人であると追及しますが、不時登城の罪で急度慎の処分を受けます。ところが、この条約調印と斉昭への処分に対して、孝明天皇は幕府を非難する密勅を水戸藩へ下しました。「戊午の密勅」と呼ばれるこの事件により、水戸藩が幕府転覆の陰謀を持っているとして斉昭にはさらに永蟄居の処分が下され、やがて「安政の大獄」(安政6年「事件・風俗」参照)という弾圧事件へと発展していきます。

この事件以後、斉昭と直弼の対立が世間でささやかれるようになり、「桜田門外の変」(万延元年「事件・風俗」参照)は斉昭の企みではないかとも言われたほどでした。しかし、事件のあった年の8月に斉昭は急逝し、61年の波乱の人生を閉じました。勤王の志士たちに多大な影響を与えた斉昭ですが、蟄居後「自分は従来の経緯があるから攘夷を主張するが、若い人は開国を主張せよ」と言っていたと伝えられています。

参考文献
『茨城県史料』幕末編1(茨城県史編さん幕末維新史部会編、茨城県、1971年)、『水戸市史』中巻3(水戸市史編さん委員会編、水戸市役所、1976年)、『新編物語藩史』9(児玉幸多ほか監、新人物往来社、1976年)、『国史大辞典』
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