明顕山 祐天寺

年表

文政12年(1829年)

祐天寺

月光院尊牌、建て替え―その2

正月、掛かりの堀大和守が若年寄に転役となり、その後は土屋相模守が掛かりとなりました。
正月28日、土屋相模守より呼状が来ました。
祐東は病気につき、代僧祐玉を派遣しました。

月光院の位牌ができたので開眼供養をしたいという旨を老中に伺ったところ、勝手次第に供養修行するようにということで、銀10枚をくださいました。老中御用番、寺社奉行に残らずお礼回りをして増上寺役所にも届けました。

2月15日、月光院の位牌ができて、勘定方原田敬吉、漆奉行手代服部新之丞、神宝方仏師桜井内進、法橋少進、竹崎石見ほかが厨子とともに持参してきました。
2月17日、月光院の法要を営む予定を土屋相模守に届けました。

18日申上刻(午後3時)にお逮夜、19日巳上刻(午前9時)に開眼法要が行われました。
20日、開眼法要が済んだことを土屋相模守に届けました。

なお、月光院位牌建て替えについては、当時増上寺におり、月光院の贈位に際しての霊屋建て増しを担当した祐麟の助言により、願い出たことがわかっています。

参考文献
『寺録撮要』3

白子組海難供養碑に追刻

2月4日、遠江沖で歓喜丸が遭難し、亡くなった乗組員の名が白子組海難供養碑(文政4年「祐天寺」参照)に追刻されました。

参考文献
白子組海難供養碑(祐天寺)

9世祐東、隠遁

9月15日、祐天寺9世祐東は隠遁しました。

参考文献
『寺録撮要』1

10世祐麟、入院

9月27日に祐水の弟子である祐麟は、祐天寺に入院して10世となりました。

参考文献
『寺録撮要』1

清雲院殿33回忌

清雲院殿(寛政10年「祐天寺」参照)の33回忌にあたり、位牌(厨子入り)、ご膳具1通りを将軍家斉御台所茂子より新規にお納めがありました。廟塔を磨き直し、石の玉垣を新規に造りました。10月13日に表使い小倉が代参し、ご法事料として金7両、お香典銀3枚のお供えがあり、ご法事を勤めました。そののち廟塔の供養がありました。

参考文献
『寺録撮要』2

祐海像胎内に遺言等を納める―その2

10月15日、祐麟は祐海像(元文2年・文化5年「祐天寺」参照)に祐天上人の遺言と仏画2幅を納めました。

参考文献
『祐天寺什物調査概報』(金山正好、1978年、祐天寺蔵)

海善、遷化

10月18日、祐水の弟子の海門(文政元年「祐天寺」参照)の弟子である海善が寂しました。
伊丹(兵庫県)正覚寺の住職でした。祐天寺に納められた法号は風蓮社航誉上人海善和尚です。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』

鳶三番組供養塔、建立

この年、江戸町火消三番組(て・あ・さ・き・ゆ・み・本組)が、消火活動中に命を落とした仲間のために供養塔を建立しました。三番組は芝金杉橋から高輪、白金、二本榎、目黒辺りまでを守備範囲としており、こののち供養塔には嘉永4年(1851)までの殉職者が追刻されます。

参考文献
鳶三番組供養塔刻文(祐天寺)
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