3月、大奥に預け置いた浚明院殿(10代家治)よりの供養料(浚明院殿はじめ、そのほかの尊霊の供養料と祠堂金)の残り250両と、その利子を受け取りました。
3月、祐東は寺社奉行お掛かり堀大和守へ、月光院尊牌建て替えの願書を増上寺役者中の添簡を添えて差し出しました。正月に月光院に贈位があったのに因んでのことです。願書は預かり置きになりました。
8月10日、堀大和守へ召し出され、書付をもって建て替えが仰せ付けになりました。これにより神宝方手代服部新之丞、金子吉之助、そのほか棟梁、仏工竹崎石見が来寺し、今まで安置してあった尊牌の見分を行いました。
9月、月光院の尊牌が間もなくでき上がるにつき、開眼、修法を行いたいという願書を増上寺添簡とともに堀大和守へ出しました。役人小林喜兵衛へ差し出したところ、預かり置きとなりました。
9月13日、漆奉行藤井孫十郎からの手紙を添えて、月光院仮厨子が竹崎石見によって届けられました。古い厨子は石見に引き渡しました。
下高輪願生寺の祐天上人名号付き牛供養塔(文化3年「祐天寺」参照)が再建されました。
7月16日から25日まで千部修行を行うにつき、本堂の向拝脇左右に、板戸葺きの仮日除け、また仮番所2か所、廟所前仮日除け1か所、水茶屋17か所を作りたいという願書を、6月に寺社奉行へ出しました。
また、今年は10万部(実際には11万部。万単位の年ということか)にあたるので、26日に経供養を行いたいという願いも出しました。
7月、祐東は「千部十一万部供養宣疏」を作成しました。実際には祐麟の代作です。祐海が祐天上人1周忌に初めて千部修行を行って(享保4年「祐天寺」参照)以来110年間、代々にわたって毎年7月に修行を重ねてきて、それが11万部になったことを述べています。
9月11日、祐全の弟子であった祐愍が遷化しました。大坂心眼寺の住職でした。祐天寺に納められた法号は覚蓮社慈誉上人祐愍和尚です。