5月23日、祐全の娘分だった千代橋(享和元年「祐天寺」参照)が逝去しました。千代橋は紀州家に仕えていました。法号は觀光院圓誉祐本大姉です。
6月15日、酉蓮社(天明4年「説明」参照)1代の見蓮社真誉上人了覚和尚が示寂しました。
7月20日、将軍家斉息女和姫が逝去しました。和姫は毛利斉広の正室でした。祐天寺に納められた位牌に記された法号は、貞惇院殿聖胎實成大姉です。
10月19日、現在は押付本田水神社(茨城県北相馬郡利根町)にある祐天上人名号付きの総州六阿弥陀詣供養塔が建立されました。この供養塔は、総州六阿弥陀をすべて詣でたあとに参拝する懺悔所である押付本田瑞光寺にあったものと思われます。榎本氏の論にあるように、総州六阿弥陀詣は武州六阿弥陀詣を模して創始されたものです。
10月23日、祐東の実兄である権大僧都法印萓乗が逝去しました。いわき(福島県)門学院の主でした。
10月、智頭町波多(鳥取県)に祐天上人名号石塔が建立されました。
11月5日、田安家の老女三輪山が逝去して祐天寺に葬られました。
法号は、聖憐院皎誉智月祐圓法尼です。
三輪山は閑院宮諸太夫浅井刑部少輔の娘で、その父の墓も祐天寺にありました。
福島(福島県)大蔵寺に祐天上人名号石塔(文化10年「祐天寺」参照)を建立した願主であり、福島誓願寺14世であった良応が、12月14日に遷化しました。
紀州家と祐天寺は古くからさまざまなかかわりがありました。古くは、徳川綱吉の子として生まれ紀州家に嫁した鶴姫が、祐天上人に信仰を寄せていました(延宝5年「祐天上人」参照)。
また、紀州家出身の将軍吉宗も「今の世の出家というのは祐天1人である」と言って、側室於古牟の方が手縫いした、蓮糸の袈裟を祐天上人に届ける(正徳5年「祐天上人」、享保元年「人物」参照)など、祐天上人に敬信の念を抱いていたことがうかがわれます。
さらに10代藩主徳川治宝は、地蔵堂厨子を寄進しました(寛政6年「祐天寺」参照)。
これらのことに現れているように紀州家では代々祐天寺に信仰を寄せており、祐天寺には多くの法号が納められています。
また、祐天寺墓地には紀州家の子女のための墓石がいくつかあります。そのうちの1つには4霊の法号が記されており、いずれも7代当主宗将の子女のものです。宗将の子息1霊の法号のみを刻んだ墓石もあります。11代斉順長女菊姫、同次女、同三女庸姫、そのほかの同女が3霊その他の計11霊の法号が記されている墓石もあります。