明顕山 祐天寺

年表

文政09年(1826年)

祐天上人

大蓮寺地蔵菩薩像、建立

6月、前橋市(群馬県)大蓮寺の地蔵菩薩像が建立されました。地蔵菩薩の背中に祐天上人名号が彫ってあります。施主は江戸日本橋の相模屋伊助です。大蓮寺は15世深誉幽山が住職の時代でした。

参考文献
地蔵菩薩像台座刻文(前橋市大蓮寺)

寺院

専修寺阿弥陀如来像、開帳

8月、下野国(栃木県)の高田専修寺の本尊である阿弥陀如来像(一光三尊仏)が、浅草(台東区)唯念寺にて開帳されました。
専修寺は、親鸞がこの地に立ち寄った際に、虚空蔵菩薩の化身から夢告を受けて建立した寺院として伝えられ、本尊の如来像は寺院建立時に親鸞が信濃善光寺から感得して安置したと言われています。以来、専修寺には多くの門弟が集まり、専修寺を中心とする真宗高田派という1派を形成していきました。

唯念寺は高田派寺院の中でも、幕府からの通知を本山へ取り次ぐ役目などを担う格式の高い寺院で、浅草称念寺、桜田(港区)澄泉寺と合わせて「江戸三ヶ寺」と呼ばれていました。また、寛政4年(1792)には祐天名号の付いた水難供養塔が建立されています(寛政4年「祐天寺」参照)。
この年の開帳は、詳細についてはわかりませんが、50日間にわたって行われたそうです。

参考文献
『真宗高田派唯念寺史』(唯念寺編集・発行、1996年)

事件

近藤富蔵の殺傷事件

5月、近藤重蔵(「人物」参照)の長男である富蔵が、江戸目黒の農民塚越半之助一家7人を殺傷する事件を起こしました。半之助は目黒にある近藤家別荘の隣に住み、重蔵から別荘の管理を任されていましたが、近年、この別荘と自宅との境界地を巡る争いが起こり、なかなか決着が着かない状態が続いていたのです。

近藤家の別荘には、3、000坪の敷地に玉川上水の水を引いて滝をかけ、5丈(約15メートル)ほどの小型の富士山を築くなど贅をこらした山水庭園がありました。特にこの富士は富士講仲間が奉仕により集まり、2か月もかかって作り上げたもので、目黒新富士として多くの参詣者が訪れる名所でもあったのです。

もともと重蔵は半之助に、自分が大坂弓奉行として大坂で任務に就いている間だけの管理を任せていたのですが、半之助は自宅と別荘との間の垣根を壊してすべてを自庭とし、この庭園の景観を売りとしてそば屋を開業していたそうです。多い日には売り上げが1両もあったため、重蔵が江戸に戻ったあともこの別荘を明け渡そうとはしなかったと言います。やがてこの争いは裁判沙汰へと発展し、吟味の結果は重蔵の勝訴となったものの両家の反目は日に日に激しくなっていき、やがて耐えかねた富蔵が事件を引き起こしてしまったのです。

10月、富蔵に下された処分は八丈島への流罪でした。また、重蔵も息子に連座して近藤家改易のうえ近江大溝藩分部家へお預けの処分を受け、3年後には59歳の生涯を閉じています。
八丈島へ流された富蔵は、尊い人命を奪ったことを後悔して仏道に励むようになります。また、八丈島を探検し、史料の蒐集や島民への聞き書きを続けて『八丈実記』という膨大な記録を書き残しました。そのほかにも、身の丈6尺(約1.8メートル)という豊かな体格を生かし、石垣を築いたり畳を作るなどして島民たちの生活を支え、また夕学館と名付けた学校の経営にも携わるなど島民の教育にも力を入れました。

明治13年(1880)、赦免となった富蔵は江戸へ戻り、菩提寺への参詣や念願だったという西国巡礼の旅をしています。しかし、明治15年(1882)には再び八丈島へ戻り、明治20年(1887)に83歳で逝去しました。八丈島開善院にある富蔵の墓は現在、東京都指定の旧跡となっています。

参考文献
『八丈島の流人』(小川武、聖文社、1968年)、『没後百年記念誌 近藤富蔵』(近藤富蔵翁没後百年記念事業実行委員会編集・発行、1993年)、『目黒区の歴史』(東京ふる里文庫4、目黒区郷土研究会編、名著出版、1978年)、『日本全史』、『朝日日本歴史人物事典』

芸能

林屋正蔵の怪談咄

文化2年(1805)、三笑亭可楽に入門した初代林屋正蔵は、怪談咄を得意としました。手先が器用で絵心があり、義太夫にも通じていた正蔵は、仕掛けを作り背景を描いて、人形を用いて行う怪談咄に活路を見いだしたのでしょう。鶴屋南北の『東海道四谷怪談』(文政8年「出版・芸能」参照)の仕掛けにも正蔵は協力しました。文化14年(1817)より西両国に定席を持ち、興行を行いました。自分の持ち席があればこそ、大掛かりな仕掛けが必要となる怪談咄もできたと言えます。

参考文献
「落語家の歴史―鹿野武左衛門から三遊亭円朝の登場まで―」(延広真治、『別冊落語界 落語家総覧』、深川書房、1980年)、『朝日日本歴史人物事典』

人物

近藤重蔵  明和8年(1771)~文政12年(1829)

北方の探検家・近藤重蔵は、名を守重、号を正斎と称し、幕府与力の子として江戸駒込で生まれました。5、6歳で孝経を暗誦して神童と呼ばれ、また、のちに行われた湯島聖堂の学問の試験では最優秀の成績を取るほどの秀才だったと言います。

寛政2年(1790)に隠居した父の跡を継いで御先手与力となり、寛政7年(1795)には長崎奉行手付出役として出張。長崎では、奉行の中川忠英の命により、中国・清の風俗や制度、宗教などの聞き書きをまとめた『清俗紀聞』の編纂に携わるほか、安南国(ベトナムの一部)の事情を紹介した『安南紀略藁』などを書き上げています。これらの著作活動により外国の情勢について知識を蓄えていった重蔵は、外国に対して日本があまりに無防備だと危惧したのでしょう、幕府に対して蝦夷地取り締まりの警備に関する建言をしています。

やがて、寛政9年(1797)に支配勘定に転任となって江戸へ戻ると、翌10年(1798)には松前蝦夷地御用取扱となり、蝦夷地視察の一行に加わりました。このとき最上徳内(天明6年「人物」参照)らと択捉島に渡り、択捉島が日本の領土であることを示すため「大日本恵登呂府」の標柱を立てています。また、その帰途の海岸の道が危険であるとして、私費を投じて山道の開拓を行いました。これが、蝦夷地開道の初めとも言われます。その後も寛政11年(1799)、享和元年(1801)、同2年(1802)、文化4年(1807)の4回にわたって樺太や千島を探検するほか、積極的に道路の建設を行い、高田屋嘉兵衛(寛政11年「人物」参照)に命じて択捉航路を開拓させました(寛政11年「事件・風俗」参照)。この航路の開拓により、蝦夷地にさまざまな物品を供給することができるようになったため、蝦夷地への移住者が増えていったそうです。また、巡検の結果、石狩に蝦夷地全島の本拠地を置くべきだと進言し、これが現在の北海道庁所在地である札幌市の端緒となりました。

蝦夷地探検ののち、文化5年(1808)に書物奉行となった重蔵は、紅葉山文庫の書籍を読みふけり、幕府の外交文書を整理した『外蕃通書』などを献納。しかし、本の内容が開幕以来の外交政策について触れていたため、幕閣にはあまりよく思われなかったそうです。また、紅葉山文庫の修造について老中と争論することもあったと言われ、文政2年(1819)に大坂弓奉行へ転任となったのは、これらの重蔵の行動が原因だと思われます。

さらにその後、身分不相応のぜいたくな邸宅を築いたうえ大納言の息女をめとったことに対して不遜であるとされ、文政4年(1821)に小普請入差控を命じられます。江戸滝野川(北区滝野川)に閑居後は、目黒の別荘に移り住むことになりました。滝野川では蒐集した数百巻の古書籍を蔵する滝野川文庫を建設しています。また、自分の甲冑姿の絵を画家の谷文晁に描いてもらい、この絵をもとに石像を造って物議をかもしたそうです。またこの頃までに、『金銀図録』『右文故事』『憲教類典』を完成・献納するほか、金沢文庫再興を企図する『金沢文庫考』などの著作を成しています。

そして文政9年には重蔵を悲劇が襲いました。目黒の別荘の境界争いがもとで長男の富蔵が殺傷事件を起こし(「事件・風俗」参照)、重蔵はこれに連帯して処罰を受けてしまったのです。富蔵は八丈島へ配流、近藤家は改易となり、重蔵は近江大津藩分部家預かりとなりました。
 文政12年に配所の地で不遇のうちに生涯を閉じた重蔵の墓は、現在は分部家菩提所の瑞雪院と江戸駒込西善寺にあります。

参考文献
『江戸の旗本たち』(河原芳嗣、アグネ技術センター、1997年)、『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』
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