3月5日、毛利甲斐守元寛の正室が逝去しました(「説明」参照)。溝口直諒の娘でした(溝口家については文政7年「説明」参照)。祐天寺に納められた法号は慈照院殿眞光貞明大姉です。
元寛は長府藩毛利家の元義の子息かと思われますが、不明です。
4月3日、祐水の弟子祐順が示寂しました。増上寺で講釈〔三席(縁輪・扇間・一文字という法問のときの3種の席であり、学問を積んだ者が座ることができた)から多く講師を出して行った講義〕の講師を勤めました。法号は眞蓮社際誉上人祐順和尚です。
この年に書かれた村尾嘉陵の『岡の秋かぜ』という書物には、この頃の祐天寺の千部修行前の様子が描かれています。
祐天寺はあすを千部経の初めとて、かりの廊を作り、幕をはり、
提灯などあまたかけならべたり、供養の大塔婆をたて、開基森川
氏先祖代々の為など書つく、幕の紋は、瓜のうちに一文字あると、
葵とをまぢへうちたり、あたり坂の茶屋なんど、あまたつくりな
み、所々の民戸にも、そば麦、酒、くだものとりよろひて、あす
をまつ
9月22日に祐東は、寺社奉行月番土井大炊頭へ千部修行の継続願書を持参しました。10月6日に松平伯耆守内寄り合いの席へ行ったところ、来たる戌年(文政9年―1826―)より10か年の千部修行を許す旨が土井大炊頭より仰せ渡されました。寺社奉行中へ残らずお礼回りをしました。同日に土井大炊頭宅へも参上し、役人鷹見十郎左衛門に今日お許しをいただいたお礼を申し述べました。
毛利家からは多くの法号が祐天寺に納められています。一番古いものは宝治元年(1247)の毛利蔵人太夫季光ですが、これらは後年になって子孫により納められたものと考えられます。毛利家の信仰の中心の1人が瑞泰院でした。瑞泰院の逝去後、夫君の重就が追善のために祐天寺に常念仏堂を建立しています(明和6年「祐天寺」参照)。
重就の子どもたちの法号はその縁からか多く納められています。「毛利重就侯男尚三良トノ」(法号は峻徳院殿天質衍諄大童子)、「称澄姫/毛利少将重就女松平下総守忠啓室」(法号は蘭恵院殿孤峯智秀大姉)、「毛利重就男治親」(法号は容徳院殿仁山應壽大居士)、「毛利少将重就嫡男民部少輔重廣」(法号は隆徳院殿四品戸部傑心傳英大居士)などです。
そのほか、やはり重就の子息で長府毛利氏匡満の養子になった匡芳の正室鏡貞院が多くの墓や位牌を建立しています。
宝暦5年(1755)~文政12年(1829)
鶴屋南北は宝暦5年、新乗物町(中央区日本橋掘留町1丁目)に生まれ、幼名を源蔵と言いました。父親は紺屋の型付職人、海老屋伊三郎でした。中村座と市村座にほど近い場所に生まれた南北は、幼少時からその朝夕の太鼓の音を聞いて暮らしていたと思われます。
南北は安永5年(1776)に桜田治助の門弟となって桜田兵蔵と称し、翌6年(1777)5月から作者見習として市村座に出て、番付には同年中村座の顔見世より出るようになりました。南北が入門した桜田治助は当代一の江戸作者であり、のちに天明期の華やかな劇界を支えた中心人物でした。
南北は3年後の安永9年(1780)5月の市村座の番付では沢兵蔵と改名し、さらに天明2年(1782)4月には勝俵蔵と改名しています。そして文化8年(1811)57歳の11月に鶴屋南北を名乗るまでの30年間、勝俵蔵で通しています。
文化元年(1804)3月、南北は河原崎座の立作者(作者の中で一番権威を持つ地位)になりました。その年の7月、尾上松助を中心とする夏期の安値で興行する夏狂言(芝居)に、南北は『天竺徳兵衛韓噺』(文化元年「出版・芸能」参照)を書き下ろしました。水中の早変わりなど工夫の多かったこの狂言は大評判となりました。
文化6年(1809)6月に、南北は森田座の松助のために『阿国御前化粧鏡』(文化6年「出版・芸能」参照)を書きました。これは累物の狂言で、南北はこののち累物の作品を4作〔『解脱衣楓累』(文化9年「出版・芸能」参照)、『累渕扨其後』(文化10年「出版・芸能」参照)、『慙紅葉汗顔見勢』(文化12年「出版・芸能」参照)、『法懸松成田利剣』(文政6年「出版・芸能」参照)〕も書いています。『阿国御前化粧鏡』の牡丹灯籠の趣向は山東京伝(天明5年「人物」参照)の『浮牡丹全伝』によったものです。この芝居も評判を取り、長く興行が打たれました。南北と松助の夏狂言は、「生世話」狂言(現代劇)の確立も促進しました。
文化8年(1811)11月、南北は市村座の顔見世で4代目鶴屋南北を襲名します。この名は妻のお吉の父が3代目として名乗っていたもので、道化方の役者の名です。
文化14年3月に南北は、河原崎座の狂言『桜姫東文章』(文化14年「出版・芸能」参照)を書きました。高貴な身分の姫が没落して小塚原の遊女になり、公卿の言葉と下級遊女のげすな言葉を交ぜて使うところが毒のあるおかしみを持ったこの狂言は、死と蘇生、毒薬など南北の特徴がよく出ている作品です。
文政8年7月、南北は『東海道四谷怪談』(「出版・芸能」参照)を上演しました。『仮名手本忠臣蔵』(明和3年「出版・芸能」参照)の裏の話として作られたこの狂言は、古今まれなる大入りを取りました。その後も南北は『盟三五大切』、『独道中五十三駅』(文政10年「出版・芸能」参照)などの名作を書きました。
文政12年(1829)、中村座の顔見世に書いた絶筆『金幣猿嶋郡』が幕を開けて4日目に、南北は75歳の生涯を閉じました。葬式は、四十九日の翌文政13年(1830)正月13日に行われました。葬式では、芝居の正本に仕立てられた『寂光門松後万歳』という小本を配ったと言います。内容は芝居に仕立てられた葬式の台本で、自分の葬式まで茶番劇として演出してしまう南北の作家魂が現れています。