明顕山 祐天寺

年表

文政6年(1823年)

祐天寺

香堂、遷化

4月7日、香堂(文政2年「祐天寺」参照)が遷化しました。勝願寺36世でした。祐水の嫡弟で祐麟の師範でした。法号は晨蓮社朝誉上人祐阿香堂大和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐梵実母、逝去

7月12日、のちに祐天寺11世となる祐梵の実母が逝去しました。
法号は法誉妙忍清信女です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

神津島名号石塔、建立

この年、神津島の秩父山に祐天上人名号を模した雲龍の名号石塔が建立されました。雲龍は神津島濤響寺18世です。雲龍は学識があり、書をよくしたことが知られています。この石塔の管理をされるお宅では、今でもお盆の13日と正月(大晦日までに行う)には飾りをして線香、塩、花(および菓子)を供え、お盆には祐天さまをお迎えするためとして縁側に灯りを灯す習慣があります。

参考文献
祐天名号石塔刻文(神津島秩父山)、『神津島村史』(神津島村史編纂委員会、神津島村、1998年)

蝋燭講中、用水器を寄進

7月に蝋燭講中が、表総門前の用水器2個を寄進しました。直径4尺(約120センチメートル)です。

参考文献
『祐天寺財産目録』(明治33年―1900―、祐天寺蔵)

芸能

『法懸松成田利剣』初演

6月14日より、森田座にて歌舞伎『法懸松成田利剣』が初演されました。4世鶴屋南北の作品です。内容には「日蓮記」と「祐天記」とが盛り込まれています。

与右衛門は羽生村の百姓・助の女房・菊と密通し、駆け落ちします。逃げるときに2人は助の目と足を傷付けました。助は2歳の子を連れて密夫と女房を捜して旅に出ます。旅の途中で菊は死に、その場所に野宿する与右衛門のところへ助が来合わせました。与右衛門が密夫であると助は知り、争いになります。そのはずみに子どもは笠に乗ったまま川へ落ちました。与右衛門は鎌で助を殺し、立ち退きました。

成人した幼児は絹川家の養女となり、累という名になっていました。

累は与右衛門の素性を知らずに密通し、身ごもります。しかし、累が助の娘だと知った与右衛門は、因果のために醜くなった累を殺しました。

与右衛門はなでしこの茶入れを奪うために神田川の与吉と女房おさえを殺しますが、2人は懐中にあった祐念上人の名号の功徳で生き返ります。おさえは累の姉であったため、与右衛門は父の敵、妹の仇としておさえと与吉に斬り付けられるのでした。

参考文献
『法懸松成田利剣』(『鶴屋南北全集』9、浦山政雄編、三一書房、1974年)

人物

大田南畝

寛延2年(1749)~文政6年(1823)

四方赤良、蜀山人、杏花園、寝惚先生など多くの別号を持つ大田南畝は、寛延2年3月3日に幕府の御徒大田正智の長男として江戸牛込に生まれました。御徒という役職は禄も低く、南畝は貧困のうちに育ちました。しかし、幼少より学問を志し、15歳頃にその抜群の文才によって内山賀邸に認められると、18歳で儒者松崎観海について漢詩文を学びました。

南畝は徂徠派漢学と和学を学ぶ一方で滑稽詩歌に興味を持ち始め、19歳のときに戯れで作った狂詩文集を『寝惚先生文集』と題して出版しました。この本が大当たりしたことがきっかけとなり、南畝は狂歌にのめり込んでいきます。

やがて天明3年(1783)に、当時狂歌の第一人者とされていた唐衣橘洲に対抗する形で出版された『万載狂歌集』が大成功したことを受けて、江戸市中に狂歌ブームが巻き起こると、南畝は一躍時代の寵児となりました。南畝の人気はとどまるところを知らず、天明5年(1785)には『万載狂歌集』の続編となる『徳和歌後万載集』を出版し、また洒落本、黄表紙なども数多く著して江戸俗文芸の隆盛を築きました。

しかし、田沼意次が失脚して松平定信によって寛政の改革が断行されると、南畝はいち早く狂歌との絶縁を決心します。これは意次の腹心で南畝の庇護者でもあった土山宗次郎が汚職の責任を追及されて処刑されるという事件があったことや、かの有名な落首「世の中にかほどうるさきものはなし文武といふて夜もねられず」の作者と疑われたことから、その筆禍を恐れたためです。山東京伝が手鎖の刑に処され、また朋誠堂喜三二が『文武二道万石通』によって戯作界の引退を余儀なくされたり、黄表紙作者の恋川春町が幕府の追及を恐れて自殺したのもこの時期です。

文壇を去った南畝は寛政6年(1794)に学問吟味(人材登用試験)に首席で合格すると、2年後には支配勘定に昇進し、さらに享和元年(1801)には大坂銅座、文化元年(1804)には長崎奉行所に出役するなど、有能な幕吏として忠勤に励みました。

しかし、戯作界からは退いたものの文人たちとの交流は絶えず、寛政の改革の気運が弱まり始めると周囲の人々に請われて、蜀山人の号で再び狂歌を作りました。文壇の主流には復帰しませんでしたが、その名声は昔をしのぐものでした。

南畝の性格は温厚実直で、どの方面にも評判が良く、本屋や骨董屋などでは誰も南畝を名前では呼ばず、ただ親父と言うだけで通用したそうです。戯作界の大御所として江戸文化に大きな影響を与え続けた南畝は、文政6年4月6日に75歳でこの世を去り、江戸小石川の本念寺(文京区白山)に葬られました。

参考文献
『日本文学の歴史』9近世篇3(ドナルド・キーン、中央公論社、1995年)、『森銑三著作集』1(森銑三、中央公論社、1970年)、『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』
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