2月27日、祐忍(祐天寺7世)の弟子で、泉州池浦(大阪府)生福寺住職の祐相が寂しました。
法号は荘蓮社最誉上人祐相和尚です。
江戸金吹町の鍵屋善助は、祐天上人の名号を奉持して深く信仰していました。病気の者や臨終に錯乱する者がいるときなど、百萬遍念仏の集まりを催し心から祈るのでさまざまな利益を得ました。そこで善助は、報恩のため名号を巨石に刻み、不朽にしようという願を起こしました。同じく利益を受けた者が費用を助けたので、この碑は速やかに建ちました。祐東が碑の由来を書いた文が側面に刻まれています。
下野国都賀郡(栃木県)壬生藩主、鳥井丹波守忠燾が逝去しました。
祐天寺に納められた法号は、觀光院殿廓應泰然大居士です(「説明」参照)。
12月17日、白子組の船である勢力丸が、三州渥美郡(現在の愛知県渥美郡)百々村沖で難破し、乗組員が溺死しました。のちにこの一件は祐天寺に建てられた白子組供養碑に、ほかの海難事故の記録と共に刻され、供養されました。
12月28日、祐全の弟子で山田大善寺住職である顕巖(岩)が寂しました。顕巖は山形浄光寺の17世住職もした人物です。法号は現蓮社祥誉上人顯岩和尚です。
12月8日、祐全の弟子で、橋場(台東区)玉蓮院の住職をしていた得忍が示寂しました
。法号は然蓮社廓誉上人得忍和尚です。
常念仏を停止(文化4年「祐天寺」参照)してから、常念仏堂では祐全弟子の得忍と所化2人が留守居として日々の供養を勤めていましたが、12月8日に得忍が命終してのちは留守居にする老僧もなく、居休屋は閉め切りとなりました。
壬生藩(栃木県)鳥井氏の法号が、祐天寺にいくつか納められています。觀光院殿廓應泰然大居士(忠燾)、淨光院殿圓融妙體大姉(忠燾の正室)、照光院殿耀誉操室智貞大姉(忠燾の娘、牧野周防守康明の正室)ほかです。
春、合巻『菊累配羽觴』が刊行されました。東里山人の作です。伊豆の天城山の漁師熊平は、腹に子を持つ女房を見捨てて出奔し、大磯の廓の三浦屋に奉公します。新造田糸と良い仲になり、田糸に客の枕探し(泥棒)をさせます。その罪を塗り付けようとした鷹穂太夫が悶死したため、鷹穂を自殺に見せかけ、死人に罪をなすり付ける……と筋が展開されます。
3月5日より、中村座で歌舞伎『伊達模様解脱絹川』を上演しました。木根川谷蔵のちに與右衛門、祐念和尚、成田不動の霊像という3役で7代目市川団十郎が出演しました。