増上寺55世在禅が遷化しました。法号は寶蓮社大僧正熏誉在禪大和尚です。『祐天大僧正利益記』(文化5年「出版・芸能」参照)の序文を執筆した人物です。
3月9日、大坂源正寺の円随が寂しました。祐天上人100回忌に関するさまざまな事業を行った人物です(寛政11年・寛政12・文化11年「祐天寺」参照)。
3月10日より将軍継子の家慶は疱瘡にかかりました。12、13日は容態も危ぶまれましたが、14日よりしだいに回復に向かいました。この祈願を仰せ付けられ、お札とお守を差し上げたところ、4月10日に掛かりの亀岡よりめでたく返されました。奉納品として紅縮緬のお幡1対、金300匹、ご祈願料として銀3枚を拝領しました。
11月21日、現在内閣文庫に所蔵される『祐天大僧正伝』が書写され、校合が終わりました。
6月25日、柳井(山口県)瑞相寺に蔵される祐天上人名号の伝来記が、浅海仁左衛門により書かれました。
伝来記によると祐天上人名号の由来は以下のようなものです。もともと、大坂の何某が祐天上人を深く信仰し、はるか江戸に下って上人の教えを聞き、帰坂の日に名号を書いていただき、帰ってからは念仏を昼夜の別なく修していました。臨終に臨み、念仏同行の友である柳井渡海船幾久丸船長安月屋彦左衛門という者に名号を渡したところ、彦左衛門はこれを柳井へ持ち帰りました。
そののち、安月屋4世の孫徳兵衛が名号の由来を瑞相寺教晨に語りました。こんな鄙に真筆があるのだろうかと教晨が疑念を示したので、徳兵衛は妻の所縁の者が広島の家中にいるのを頼り、江戸の祐天寺へ名号を送って尋ねました。結果は真筆であるということで、添娜を受け取りました。
徳兵衛が病死してのちは、舎兄の善右衛門という者が五嶋へ持っていきました。五嶋でもその名号は、1度拝礼すれば諸病が癒え、奇瑞を蒙る者はその数を知らないほどでした。しかし善右衛門もほどなく亡くなり、祐天寺の添娜はいつの間にかなくなっていました。五嶋に住んでいる浅海仁左衛門とその舎弟とは協議をして、元来この名号は安月屋彦左衛門が柳井にもたらしたものなのだから、安月屋先祖代々の菩提のために柳井の瑞相寺へ納めることとしました。
2月、鎌倉光明寺82世の舜従が増上寺58世住職の台命を受け、さらに大僧正を任ぜられました。拝命の翌月である3月には右大将家慶(のちの12代将軍家慶)の子息である嘉千代(□玉院殿)が逝去したため増上寺で葬儀が行われ、舜従が導師を勤めました。
また舜従は、祐水の弟子筋にあたる学天に五重を授け、学天はのちに知恩院73世となっています。舜従は文政6年(1823)に病のため穏退すると、その年に遷化しました。