2月、祐水の弟子である香堂は、鴻巣勝願寺の35世住職となりました(文政6年「祐天寺」参照)。
文政年間(1818~1829)、香堂が勝願寺の住職であった頃に、祐麟は勝願寺鎮守の随身出世稲荷の神影を拝しました。ところが、神面がなく、堂内を探してもありませんでした。そこで神体を祐麟の寮に持ち帰り、仏工石見に命じて面を補わせようとしました。その間に香堂は神面を探し、2つを見つけました。急いで岩見のもとに送ったところ、2面は全く同じもので、神体に合いました。そこで心を定めて目を閉じて、そのうち1つを取って神像を修補しました。そののち香堂は、残った1面を使って新たに神像を彫り、祐天上人の法孫の守護神とするかどうか、籤を引きました。籤がそうするようにと出たので、仏工石見に命じて1体の稲荷神像を刻ませました。勝願寺の稲荷神像と全く同じ神形です。開眼供養して拝念していましたが、のちに祐麟に託して祐天寺にもたらされました。それまでの祐天寺の鎮守は神像がなくなっていたので、新たにもたらされた像が鎮守の堂に安置されました。
3月24日、六角橋(横浜市白楽)に祐東の名号の付いた地蔵菩薩像が建立されました。台石上段正面に名号、右側面に「目黒祐天寺 百萬遍講中」と彫られています。また、中段右側面に近隣の数十の村の名前、左側面に六角橋村の主立った人々の名前が刻まれています。この像は祐天地蔵と呼ばれ、今でも周辺の人々の信仰を集めています。
下土蔵の後方の藪を切り払うと、物置が出てきました。寺社奉行などへは願わず、4月22日に御鳥見山内助次郎へ、従来からあった物置を修復して加えたい旨を申し出ました。願書は役僧祐玉が作成しました。即日お聞き届けとなりました。
祐水の弟子であり、のちに知恩院69世住職となる順良の母が逝去しました。
祐天寺に納められた法号は釋妙心信女です。
御成門が老朽化していることについて御鳥見山内助次郎と内談していましたが、その指示により7月6日、修復してくれるよう願書を出しました。また同時に、御成門の左右に高さ6尺(約182センチメートル)ほど、長さ70間(約126メートル)余りの土手を築き、ツツジの類を植えてあるのですが、これを東南のほうが手狭になったため場所替えしたいと申し出ました。
同12日に小普請方手代増田惣一郎、近藤金之助と大工・肝煎りの幸次郎が同道して参入してきました。御成門の見分があり、門は今までの場所よりも東南へ4間(約7.2メートル)、内方へ3間(約5.4メートル)引き寄せるようにしたいと、立ち会った役僧が申し入れたところ、承知くださいました。
8月12日、御鳥見衆高倉庄次郎より役僧が呼び出され、先だって願った内垣引き寄せの儀は許可が出たので願いどおり直すよう申し渡されました。
8月16日、御成門立て直しの見分に小普請方林餘四郎ほかの役人・大工・肝煎りが来寺しました。
9月5日に御鳥見山内助次郎より、来たる11日の御成の折は、御成門左右の土手には幕を張って過ごし、御成が終わってから手を入れるようにと指示がありました。
8月28日に中目黒名主金三郎が来寺し、来月中旬に広尾の原でウズラ狩のため将軍家斉の御成があり、その折の御膳所に決まったので内々知らせておくようにと御鳥見衆より伝言があったと伝えました。
翌29日に御鳥見山内助次郎をはじめ4人が入来し、境内の見分がありました。
9月2日に御鳥見山内助次郎より、以前の御成の折にお目見えした場所を調べて、明日五つ時(午前8時)までに知らせるように申し渡されました。祐東は、入御の折に御成門の前でと、還御の折に表門内で2度、お目見えしていると書付でお伝えしました。
5日、御鳥見衆が来寺し、おただしがあったので、御膳所の仰せ付けがあっても差し支えない旨の書付を提出しました。
7日、暁七つ半時(午前5時)より見分として諸役人がお越しになり、六つ時(午前6時)過ぎに小普請方手代増田惣一郎らが来寺し、寺中に縄が張られました。御成の節の御座所の掛け物は今日から掛け置き、その旨の書面を差し出すようにと言われました。雪村の竜虎の2幅の絵は、天明時の御成の節も掛け置いたもので、ほかに花器、花台を出すことにしました。御成当日には布衣以上の方に湯漬け飯を差し上げたいと申し入れたところ、その理由を記すようにと山内より言われ、祐東は享保7年(1722)の書留を写し、時分のものを軽く献上したいと申し出ました。御小納戸松下仙助に差し出し、願いは聞き届けられました。九つ時(正午)過ぎに御小納戸頭取御場掛かりの長谷川主膳正、中野播磨守ほかの役人が来寺しました。皆が同道して来寺するのを、住持祐東は役僧祐玉、祐忍を連れて、御成門の前で出迎えました。
8日、寺中に幕張りが行われました。
9日に小普請方手代宮氏祐五郎、出役塩原庄蔵が来寺し、人足の泊まり分の仕度を頼んだので、札に印を押して渡しました。代官大貫次郎右衛門が来寺し、御成当日の休息所を頼まれました。ほかに場所がなく、念仏堂の玄関の内側の板の間へ畳を敷くことを約しました。また木具1人、出役14人分の飯札を渡しました。7日に林餘四郎に尋ね置いた、時の鐘を撞いて良いかどうかの返事が来ました。過去の例もあるため、撞かないほうが良いということでした。
10日、増上寺是生に役僧祐忍が面会し、御成の折に本堂の祐天上人像や地蔵堂地蔵菩薩像もご覧いただき、かつ宝物5種もご覧いただくよう西丸梅岡に頼んだところ、自分からも話しておくので、寺からも掛かりの役人へ願書を出し置くようにと言われていると伝えられました。
15日、祐東は右の用件の手紙を林餘四郎に渡すよう、来寺した者に渡しました。
19日、増田惣一郎らが来寺し、以前の御成のときは本堂へ立ち入られたかどうかにつき、古記録を調べ、写し取っていきました。本堂へは立ち入ることとなりました。20日に御鳥見山内助次郎へ、このたびの御成で本堂へ立ち入ることになったと届けました。
21日、林餘四郎宅へ役僧祐玉が行き、本堂へのお立ち入りについてお礼を述べました。
23日の夜に小普請方より、25日に御成があることになったと申し聞かされました。
25日の五つ時(午前8時)に奥陸尺4人が来寺したので、祐玉は膳部の世話を頼みました。御用部屋御坊主2人と伊藤円伯らに若年寄方・お側衆の膳部のお世話を頼みました。奥御坊主2人と長坂円請らが来寺し、献上物と御小姓衆・御小納戸衆の膳部の世話を頼みました。本堂の祐天上人像と本地身地蔵菩薩像を開帳しました。昼九つ半時(午後1時)頃に、将軍家斉が祐天寺に入御されました。祐東は御成門の前でお目見えしました。
八つ半時(午後3時)頃、霊宝上覧の仰せ出がありました。住持と役僧が持っていき、表玄関で中野播磨守らに引き渡しました。本堂、阿弥陀堂、釣鐘堂、地蔵堂へお立ち入りがあり、還御の節もお目見えしました。お供の役人は若年寄田沼玄蕃頭、御側衆高木伊勢守らでした。
26日、お礼とご機嫌伺いに西丸老女方まで手紙を差し上げました。
御成後の開帳の儀について、かねて御鳥見衆山内助次郎へ願書で問い合わせていましたが、その下書きを受け取りました。還御に引き続き、役僧祐忍がサメ茶屋まで持参し、山内助次郎へ願書を差し出しました。
8月17日に森川家(文化13年「説明」参照)で、祐東の名号付き墓石を建立しました。
8月18日、増上寺よりお達し書きが来ました。来たる22日、知恩院御門主が参向され、旅館は願行寺で、お出迎えは同日四つ時(午前10時)までにそろって行いたいという趣旨でした。この件について増上寺帳場大笈師に問い合わせたところ、詳しいことは大養寺に聞かないとわからないということでしたが、病気届けを提出すればお出迎えしなくても許されるということでした。21日、祐東は病気のため知恩院御門主を迎えられない旨を書いて、増上寺役所へ届けました。9月3日に増上寺役所より、来たる6日に知恩院御門主宿坊天徳寺においてご参向の祝儀を催すので集まるようにというお達し書きが来ました。
6日、祐東は病気のため知恩院御門主のご祝儀に出ず、代僧祐心を遣わしました。祐天寺は内礼格のため、直参したのであれば3畳目に進上物を出し、2畳目で拝礼するはずですが、代僧なので2畳目に進上物を出して、1畳目でお礼申し上げました。本日は白地五色菊紋付きの沙の五条袈裟1肩を下されました。
浮田左金吾は中山寺で武運長久のご祈祷の場から鬼つらにより、浮田家が預かっているまんじのみ旗とてんがん鏡を盗まれた落ち度と、こっそりと愛人高雄太夫を連れ込んだことが問題になり、蟄居を申し付けられます。忠臣与右衛門の妻かさねは、てんがん鏡を見付けて悪者と争う弾みに顔に傷を受けます。かさねは、「民」と名を変えた高雄太夫を連れて下総へ行きますが、夫与右衛門と民との仲を疑い、民に堕ろし薬を飲めと強要し、木太刀で打ち掛かったところを与右衛門に見られ、民を斬ったと思われて殺されます。
かさねは亡霊となり、1人娘おきくに逢いにきますが、与右衛門が祐天上人の名号を出すと消え失せます。与右衛門は捕り手に囲まれ、娘のきくは縛られますが、そこに浮田左金吾と禁廷の使者滝口修理之介勝元が2つの宝を携えて現れ、おきくを救います。浮田家の宝が戻り、鬼つらのたくらみも暴かれたので、左金吾は禁廷に再び仕えることとなりました。勝元は与右衛門の娘おきくを左金吾に嫁がせ、皆が栄えました。