明顕山 祐天寺

年表

文化14年(1817年)

祐天上人

惣門、建て替え

惣門は寛政7年(1795)に建て替えましたが老朽化したので、開山100回忌を控えて建て替えたいという願書を、2月15日に寺社奉行所へ提出しました。
同24日、呼状に従って役僧欽然を差し出しました。役人川住市右衛門が出会い、惣門修復の儀が願いのとおり許されると申し渡されました。すぐに増上寺役所へ届けました。
同25日、御鳥見衆へ使僧をもって惣門修復のことを届けました。

3月21日、惣門修復に取り掛かりました。

参考文献
『寺録撮要』2

石灯籠、寄進

4月8日、地蔵堂前に石灯籠1対が寄進されました。赤坂□町3丁目八木屋科右衛門・同5丁目相模屋幸七からの寄進です。

参考文献
石灯籠刻文(祐天寺)

祐天上人廟所石垣、建立

祐天上人100回忌にあたり、信者により廟所石垣が建立されました。また、その事業を記念するために100回忌遠忌塔が建立されました。遠忌塔に刻された世話人は市谷田町1丁目伊勢屋甚兵衛、同鯛屋與左衛門ら12名で、全体には町人のほか尾州御屋鋪、尾州御奥梅岡などの武家関連の名も見え、各種の職業の男女が寄進したことがしのばれます。

参考文献
祐天上人100回忌遠忌塔刻文(祐天寺)、「祐天上人百回遠忌塔―第一墓地―」(中島正伍、『THE祐天寺』17、祐天寺、1991年)

廟所寄進先霊切回向、始まる

廟所の石材を寄進した人々への開山御廟玉恆寄進四百八家先亡霊の切回向が始まりました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

説明

徳川家斉・家慶と祐天寺


11代将軍徳川家斉は、祐天寺とさまざまなかかわりがありました。
家斉は文政2年(1819)9月に祐天寺を御膳所として御成になり、このとき本堂、地蔵堂にも立ち入り、祐天上人像や地蔵菩薩像に参拝しています(文政2年「祐天寺」参照)。また、流産した子息である清雲院殿の墓所が祐天寺にあります(寛政10・文政12年「祐天寺」参照)。家斉(文恭院殿)、家斉御台所(広大院殿)、家斉の息女で毛利家に嫁した和姫(貞惇院殿)の位牌は、祐天寺に納められています(文政10年「祐天寺」参照)。
家斉の跡継ぎで、のちに12代将軍となる家慶が文政3年(1820)に疱瘡に罹ったときには、お札、お守をお出ししました(文政3年「祐天寺」参照)。祐天寺はまた、家慶の子息で流産した明幻院・浄邦院の墓所ともなっています(文政9年「祐天寺」参照)。家慶(慎徳院殿)、家慶御台所(浄観院殿)の位牌が祐天寺に納められています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

寺院

蛸薬師如来、開帳

4月、目黒成就院の本尊である薬師如来像が開帳されました。天台宗宗祖最澄の高弟、慈覚大師(円仁)の作と伝えられるこの如来像には、次のような縁起があります。

慈覚大師は、自ら彫った小さな薬師如来像を常に護持していましたが、中国・唐からの帰路の海上で嵐に遭った際、この像を海に捧げて難を逃れました。後日、諸国行脚中にこの海に捧げた如来像が蛸に乗って波間に浮かんでいるのを見つけ、非常に喜びます。そして目黒の地へ来たとき、諸病平癒を祈ってここに堂宇を建て、この如来像を模した像を彫り、護持していた像そのものは模した像の胎内に収めた、というものです。

この蛸薬師如来の像は、蛸が支える蓮台に坐している珍しいもので、この本尊に祈願すれば、病気が治り福を招くことができると言います。江戸時代には、蛸を食べることをやめて祈願すればその願いがかなうとか、逆に、蛸を食べれば願いがかなうなどと言われ、蛸の絵が描かれた絵馬を捧げることが流行したそうです。

参考文献
『江戸名所図会』2(日本名所図会全集、名著普及会、1928年)、『目黒区史』(東京都立大学学術研究会編、東京都目黒区、1961年)

風俗

北斎の大だるま

10月、尾張国(愛知県)名古屋の西本願寺別院の茶所の前で、天才絵師として名高い葛飾北斎が、120畳敷きの紙に大だるまの絵を描くという興行を行いました。米俵をつぶして作ったわらの筆やシュロぼうきを使い、午前9時頃から夕方までかかって完成された大だるまの半身像は、目が6尺(約1.8メートル)、口が7尺(約2メートル)、耳が1丈2尺(約3.6メートル)、そして顔が3丈2尺(約10メートル)もの大きさで、集まった見物人たちはその大きさに大変驚いたと言います。この興行が行われる前には、引札(広告の一種)が売られるなどして広く人々に宣伝されていたため、描き上げられた翌日にこの大だるまの絵が茶所の集会所前に掛けられると、これを見るために集まった人々で境内は終日賑わったそうです。

北斎は文化元年(1804)にも、江戸の護国寺で大だるまの絵を描いて評判となりましたが、今年の興行には、同年頃に出版された北斎の代表作の1つである『北斎漫画』の宣伝という目的がありました。その目ろみどおり、北斎の人気が高まって『北斎漫画』は大ベストセラーとなり、続編が次々と刊行されていきました。
北斎は大きな絵を描くパフォーマンスだけでなく、米粒に2羽の雀を描くという妙技も見せて評判を呼んでいます。

ドゥーフの帰国

12月、オランダ商館のヘンドリック・ドゥーフが、享和元年(1803)から14年もの長期間にわたる在勤の末、ようやくオランダへの帰国を果たしました。商館長の在勤期間は通常1年でしたが、ヨーロッパがナポレオン戦争の渦中にあり、本国オランダもナポレオン1世の軍隊に占領されて船を出せなかったために、ドゥーフはなかなか帰国することができなかったのです。
ドゥーフの在勤中は、フェートン号事件(文化5年「事件・風俗」参照)のほかイギリス人たちが商館の乗っ取りを企んでやってくるなど日本が外国船の脅威にさらされる事件が相次ぎましたが、ドゥーフは事件解決のため、日本側に対して非常に協力的に尽力しました。また、日本人の心情にも理解が深く、人々から厚い信頼を寄せられたと言います。ドゥーフは日本滞在中に男子をもうけており、自分が日本を離れたあとも息子が無事に暮らしていけるよう長崎奉行所に嘆願書を出しますが、これがすんなり許されたのも、ドゥーフの日本におけるさまざまな功績によるものではないかと思われます。
 日本を離れたのちのドゥーフは嵐に見舞われたり、乗り継ぎの船がなかなか来なかったりするなど、帰国は困難を極めました。本国へたどり着くのはおよそ2年後の文政2年(1819)のことになります。帰国後、戦乱の間にもよく出島の独立を維持した功績を讃えられ、ドゥーフはオランダ国王から勲章を授与されました。

参考文献
『歴史誕生』11(NHK歴史誕生取材班編、角川書店、1991年)、「絵と人のものがたり――葛飾北斎」3(前田恭二、読売新聞日曜版、2001年7月8日)、『阿蘭陀商館物語』(宮永孝、筑摩書房、1986年)、『長崎オランダ商館日記』6(日蘭学会編、日蘭交渉史研究会訳、雄松堂出版、1995年)、『国史大辞典』、『日本全史』

芸能

『桜姫東文章』初演

3月に河原崎座で、歌舞伎『桜姫東文章』が初演されました。4世鶴屋南北作です。
建長寺の僧自休と、稚児白菊丸は心中しますが、自休だけが生き残ります。17年後に、吉田家の息女桜姫に生まれ変わっていた白菊丸と、新清水の清玄となった自休は再会します。生まれつき開かなかった桜姫の右手が清玄の十念によって開くと、自休と白菊丸2人の誓いの香箱が握られていました。

桜谷の草庵で桜姫は剃髪しようとしますが、姫との間に子までなした釣鐘権助が現れます。清玄は桜姫の不義の相手として、姫とともに追放されます。そののち姫は権助によって小塚原へ女郎に売られて風鈴お姫と呼ばれるようになりますが、姫らしい言葉と伝法な言葉とが混じった言葉を話すところなどが見せ場の1つです。権助が父や弟の敵と知った姫は権助を殺し、『都鳥』の1巻を取り戻します。

参考文献
『歌舞伎事典』、『鶴屋南北全集』6(竹柴褪太郎、三一書房、1971年)

人物

初代式守伊之助  寛保3年(1743)~文政5年(1822)

初代式守伊之助は寛保3年に谷喜兵衛(家号は「なべや」)の3男として、伊豆国賀茂郡小稲村(静岡県賀茂郡南伊豆町手石)で生まれました。式守家の先祖は伊勢ノ海五太夫の門弟、または始祖とも言われていますが定かではありません。伊之助は宝暦12年(1762)20歳のときに江戸へ出て、力士になるために両国元町にあった伊勢ノ海部屋に入門しますが、体格に恵まれず行司に転向したと伝えられています。

伊之助の名が初めて相撲番付に載ったのは、明和4年(1767)3月15日から富岡八幡宮境内で行われた晴天八日興行のことで、安永3年(1774)には木村庄之助に次ぐ次席行司に昇格しました。庄之助を横綱格とすると、伊之助は大関格といった感じになりますが、江戸時代においては両家が行司の重鎮で、今日までその名跡を伝えているのもこの両家だけです。

式守家と木村家では力士を呼び上げるときの軍配の握り方が違い、式守家は軍配を持つ右手の指が上、握りこぶしを下に構えることから「陽」と言われ、木村家は逆に握りこぶしが上、指を下に構えたことから「陰」と言われました。また、式守家は紫分ひも(紫と白を打ち混ぜたもの)の軍配を持ちますが、木村家は紫の軍配を持つという違いもあります。

寛政3年(1791)伊之助48歳のときに、江戸城吹上苑で11代将軍家斉の上覧相撲が行われました。天明期(1781~1788)以降、相撲は隆盛の一途をたどってきていましたが、このときの上覧相撲は江戸相撲の本場所をできうる限りの内容と形式で整えた、豪華版とも言えるものでした。幕府も近年に例のない盛事ゆえに協力を惜しまず、細部にまでこだわったため、江戸市中でも噂になり、相撲人気はいっきに最高潮に達したと言えます。伊之助もこの上覧相撲で行司を務め、取り組み11番を合わせました。

この上覧相撲の終了後、伊之助は庄之助とともに南町奉行所に呼び出され、相撲の投げ手の形についてお尋ねを受けました。そこで庄之助が四十八手の形を書いて差し出しましたがわかりにくいとのことで、伊之助と式守見蔵の2人が白洲で裸になって相撲の形を実演したというエピソードが奉行所の記録として残っています。また、この上覧相撲の際に拝領した脇差しが、現在も生家のなべやに伝わっているそうです。

伊之助は寛政5年(1793)に引退し、蝸牛と号して寛政の上覧相撲の様子を書いた『相撲隠雲解』を著すなどしながら余生を送り、文政5年11月28日、生まれ故郷の小稲村で79歳の生涯を閉じました。弥陀の岩屋(享保3年「祐天上人」参照)で有名な阿弥陀山上に葬られ、墓石の横には「当所産蝸牛膏祖式守翁」と刻まれています。膏祖とあるのは、伊之助が式守家の秘薬とされる赤膏薬を作り出したことに因みます。のちに江戸の万徳院(江東区)にも分骨されましたが、関東大震災後に谷中の墓地に移されました。

参考文献
「初代立行司式守伊之助について」(谷正、『南史』12、南伊豆町南史会編集・発行、1982年)、『南伊豆町の文化財めぐり』(南伊豆町教育研究会社会科研修部編、南伊豆町教育委員会、1989年)、『日本相撲史』(横山健堂、冨山房、1943年)、『国史大辞典』
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