惣門は寛政7年(1795)に建て替えましたが老朽化したので、開山100回忌を控えて建て替えたいという願書を、2月15日に寺社奉行所へ提出しました。
同24日、呼状に従って役僧欽然を差し出しました。役人川住市右衛門が出会い、惣門修復の儀が願いのとおり許されると申し渡されました。すぐに増上寺役所へ届けました。
同25日、御鳥見衆へ使僧をもって惣門修復のことを届けました。 3月21日、惣門修復に取り掛かりました。
4月8日、地蔵堂前に石灯籠1対が寄進されました。赤坂新町3丁目八木屋科右衛門・同5丁目相模屋幸七からの寄進です。
祐天上人100回忌にあたり、信者により廟所石垣が建立されました。また、その事業を記念するために100回忌遠忌塔が建立されました。遠忌塔に刻された世話人は市谷田町1丁目伊勢屋甚兵衛、同鯛屋與左衛門ら12名で、全体には町人のほか尾州御屋鋪、尾州御奥梅岡などの武家関連の名も見え、各種の職業の男女が寄進したことがしのばれます。
廟所の石材を寄進した人々への開山御廟玉恆寄進四百八家先亡霊の切回向が始まりました。
11代将軍徳川家斉は、祐天寺とさまざまなかかわりがありました。
家斉は文政2年(1819)9月に祐天寺を御膳所として御成になり、このとき本堂、地蔵堂にも立ち入り、祐天上人像や地蔵菩薩像に参拝しています(文政2年「祐天寺」参照)。また、流産した子息である清雲院殿の墓所が祐天寺にあります(寛政10・文政12年「祐天寺」参照)。家斉(文恭院殿)、家斉御台所(広大院殿)、家斉の息女で毛利家に嫁した和姫(貞惇院殿)の位牌は、祐天寺に納められています(文政10年「祐天寺」参照)。
家斉の跡継ぎで、のちに12代将軍となる家慶が文政3年(1820)に疱瘡に罹ったときには、お札、お守をお出ししました(文政3年「祐天寺」参照)。祐天寺はまた、家慶の子息で流産した明幻院・浄邦院の墓所ともなっています(文政9年「祐天寺」参照)。家慶(慎徳院殿)、家慶御台所(浄観院殿)の位牌が祐天寺に納められています。