歌人日野資矩は祐水に帰依していましたが、祐水の遷化(文化12年「祐天寺」参照)に遭い非常に悲しみ悼み、阿弥陀経を書写しました。経は7冊に及びましたが、この年正月に祐水の弟子である香堂が1つの箱に取り収め、箱蓋の裏に由来を書きました。
祐天上人100回忌を記念して、この年の3月15日から60日間、本所(墨田区)回向院で開帳を行いました(文化12年「祐天寺」参照)。本尊阿弥陀如来像と祐天上人像そのほかの霊宝を開帳しました。
4月7日、祐東は新湊(富山県)大楽寺が所蔵する祐天上人像に付随した名号の裏書を書きました。表の六字名号は祐天上人の染筆に間違いないという文章のあとに、「四月七日 開帳中」と書かれており、回向院での開帳中にこの裏書を書いたことがわかります。
6月、阿部備中守へ、千部修行の期間に仮日除けを作ることの許可の願い出に伺候しました。役人塩田屯が申し渡したことには、これ以後は願書も請書も西之内紙に書き、増上寺役者の奥印を受けて持参するように、そうすれば即日聞き届けられるだろうということでした。その後は毎年請書を提出するようになりました。ここで言う日除けとは、本堂向拝脇に板戸葺の仮日除けを張り出し、また仮番所2か所、廟所前に仮日除け1か所、水茶屋17か所などを苫葺きで設置するものです。
6月、狼牙落とし名号縁起を大奥へご覧に入れました。狼牙落とし名号とは以下のような話にまつわるものです。ある老女が秩父巡礼に行く前に、祐天上人の庵室へ来て名号を請けていきました。巡礼の途次、仲間とはぐれてしまい、1人山道を歩いていると、狼が襲ってきました。老女が名号を狼の鼻先に差し付けると、狼は牙を1枚落としておとなしくなり、それからは老女を送るように付いてきたという話です。その名号は松村半兵衛の嫁の妙船に伝わり、妙船はその父法眼不角に縁起を書かせ、名号とともに祐天寺へ寄進したのでした。
永代施餓鬼講1万480霊などの切回向が始まりました。祐天寺資料の表記には「回向院出開帳中」と注記があり、回向院の出開帳中に永代施餓鬼講の申し込みを受け付けたものと考えられます。発起頭は伊勢屋安右衛門です。
8月24日、祐水弟子の順昌が寂しました。堺南十万(大阪府)長泉寺に住し、のちに洛東(京都府)井窪寺に住しました。法号は瑞蓮社身誉上人行阿順昌和尚です。
8月、直径7寸9分(約24センチメートル)、高さ2尺6寸5分(約80センチメートル)の蝋燭立てが森川家(「説明」参照)より寄進されました。
生実藩主森川氏(「祐天寺」参照)の先祖は重俊です。台徳院殿(2代将軍秀忠)に仕え、その薨去のときに殉死しました。重俊は生実(千葉県)の重俊院に葬られ、そこが代々の葬地となりました。
4代目の俊胤は致仕後は悠計と号し、また一之顕光英雄院(『寛政重修諸家譜』)と号しました。俊胤は祐天寺に埋葬され(分骨か)、石碑が建立されました。石碑には表面に名号と「一之顕光」の号が彫られ、背面に逝去の年月日などのほか、「となへかし 佛乃御名を 残し置く 法の志るし能 年はふるとも」という、辞世と思われる歌が彫られています。祐天寺に納められている俊胤の法号は英優院殿一之顯光大居士です。その正室である理月院殿遍誉智光大姉も祐天寺に埋葬されました。
7代目の俊孝の法号も祐天寺に納められています。泰崇院殿前紀州大守貫元隆道大居士というものです。俊孝の息女銀姫は祐天寺に葬られています(天明4年「祐天寺」参照)。また、8代目俊知の正室が葬られています。法号は仙壽院殿天誉皓月清光貞照大姉です。
なお、森川家の墓所は昭和19年(1944)に整理されて、現在は祐天寺にあります。
7月に増上寺住職の典海は、塔頭(小院)の13か院に香衣の着用を許可し、以後はこれを13か院における永式法服としました。
当時の増上寺山内には30の塔頭があり、これらの塔頭は上級武士の菩提寺でもありました。この年に香衣着用を許可された13か院は、塔頭の中でも古い歴史を持ち特に格式が高く、塔頭内での指南も勤めていました。
13か院中の池徳院は、祐天上人の伯父の休波が住職を勤めていたこともあり、祐天上人が出家後に初めて上がった寺院でもあります(慶安元年「祐天上人」参照)。