明顕山 祐天寺

年表

文化12年(1815年)

祐天上人

開帳の願い

5月、来年回向院で開帳したいという旨を阿部備中守へ願い出て、6月18日に許可されました。

参考文献
『開帳免許状』(国会図書館蔵)

千部修行

8月、今年で千部修行の10年目の修行が済んだので、来たる子年(文化13年―1816―)より10か年の間の千部修行を免してくださるように阿部備中守へ願い出ました。9月6日に免されました。

参考文献
『寺録撮要』3』

円諦院、逝去

9月20日、田安宗武の娘の円諦院が逝去しました。鍋島(松平)信濃守重茂の継室でした(「説明」参照)。祐天寺に納められた法号は、圓諦院殿本誉祐和貞穏大姉です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐水、遷化

11月17日、祐水が遷化しました。信州高梨(長野県上高井郡)の出身で、実父は中嶋治郎助と言いました。祐海が隠遁して善光寺に参詣したとき、祐水は夜仏前で剃髪して、僧侶としての名を授かりました。深川霊巌寺および京の知恩寺(54世)に住しました。法号は圓蓮社順誉上人不著心阿祐水大和尚です。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』

説明

鍋島家と祐天寺


佐賀藩鍋島家と祐天寺の関係は、7代藩主重茂の継室である円諦院(「祐天寺」参照)との関係であると言い換えても良いでしょう。円諦院の中老、円諦院のお局、あるいは施主が円諦院である人物などと、円諦院に関連する人々の法号が13霊も納められています。なかには、「円諦院殿御過去帳貳百八十八霊等」という例や、ペットのものかと思われる法号も見られます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

寺院

宝松院善霊、遷化

4月、増上寺山内にある台徳院殿(2代将軍秀忠)霊廟別当宝松院の住職だった、善霊が遷化しました。善霊のあとには、聞信が宝松院住職となりましたが、そのわずか2か月後の6月に聞信も遷化してしまい、続いて謙敬が宝松院住職となりました。

参考文献
『縁山志』3(『浄土宗全書』19)

風俗

朝顔の流行

朝顔は奈良時代末頃に遣唐使が下剤薬として持ち帰ったもので、青色の地味で小さな花だったことから、長い間薬用植物としてのみ栽培されていました。しかし、朝顔は花の色に変化が出やすく、栽培も容易であったことから、江戸時代中期頃には鑑賞用として江戸や大坂を中心とした都市で広まり、庶民の生活に浸透していきました。

朝顔と言うといわゆるラッパ型の花が主流ですが、交配の繰り返しによって実に不思議な形の花が咲き、時には途方もなく奇抜な花も咲くことに江戸時代の人々は目を付けました。こうして生まれた朝顔は「変化朝顔」と呼ばれ、黄色の花や花弁が長く垂れ下がって花火のような花、絞りや縁取りを施したような花など、なかには茎が帯のように平べったくなったものまで、人々は少しでも変わった色や形の朝顔を作り出すことに熱中しました。

文政10年(1827)に刊行された岡山鳥の著書『江戸名所花暦』によると、文化3年(1806)の丙寅の大火(文化3年「事件・風俗」参照)で下谷御徒町周辺に空き地ができ、植木屋がそこで朝顔の栽培を行い、さまざまな花を咲かせたのが江戸で大流行した始まりということです。文化12年には朝顔の栽培方法などを記した『花壇朝顔通』や『牽牛品類図考』が大坂で、文化14年(1817)には『阿さ家宝叢』が江戸で刊行されて、それから江戸時代における朝顔の第1次ブームが巻き起こりました。好事家たちの間で朝顔の品評会「花合わせ」が毎年のように開催されたのもこの時期です。

やがて天保年間(1830~1843)に入ると、朝顔流行の中心は下谷から入谷に移りました。入谷の植木屋は朝顔屋敷と呼ばれる朝顔園を開き、ごく普通の朝顔から変化朝顔まで、数多くの朝顔を並べて見世物としました。しかし、しだいに江戸での変化朝顔は下火になっていきます。

そこで以前から変化朝顔に関心を持っていた入谷の植木屋成田屋留次郎は、仲間から金を集めて大坂に行き、珍種と思われる約80品種の朝顔を50両で手に入れて栽培しました。ところが普通の花しか咲かず、一同はひどく落胆したそうです。それでも留次郎は懲りずに珍種を探し求めました。そうこうしているうちに毎年少しずつ変化朝顔の確率が高くなり、入谷の朝顔が広く世間に知れ渡るようになっていきました。嘉永・安政年間(1848~1859)には入谷で第2次朝顔ブームが起き、今日の入谷朝顔市に受け継がれています。

参考文献
『江戸の園芸・平成のガーデニング』(小笠原亮、小学館、1999年)、『江戸の道楽』(講談社選書メチエ161、棚橋正博、講談社、1999年)、『江戸のガーデニング』(青木宏一郎、平凡社、1999年)

出版

『蘭学事始』

この年、数えで83歳の杉田玄白(明和8年「人物」参照)の自伝とも言える『蘭学事始』が完成しました。玄白は前年の文化11年(1814)に原稿を書き始め、途中で病気を理由に中断することもありましたが、弟子の大槻玄沢の助けを借りて執筆は続けられていました。
和蘭医学書『ターヘル・アナトミア』の入手を契機として行われた小塚原での腑分け見分(明和8年「事件・風俗」参照)を中心とする、日本での蘭学の興りと蘭学先駆者たちの奮闘を書いた上巻と、『解体新書』(安永3年「出版・芸能」参照)の翻訳と出版にまつわる苦心談を書いた下巻から成ります。

当時は一般に出版されることはありませんでしたが、幕末に福沢諭吉によって本書の価値が見出され、明治2年(1869)に出版されました。


『伊達道具鳥羽累』

『伊達道具鳥羽累』が刊行されました。作者は7代目市川団十郎です。いわゆる、役者名義の(役者の名前を借りて出版される)合巻の1つで、『伊達競阿国戯場』をもとにした作品です。

参考文献
『古典の事典』13(古典の事典編纂委員会編、河出書房新社、1986年)、『物語江戸の事件史』(加太こうじ、立風書房、1988年)、『歌舞伎年表』、『国書総目録』、「七代目市川団十郎の合巻」(佐藤悟、『歌舞伎研究と批評』、歌舞伎学会、2001年6月)

芸能

『慙紅葉汗顔見勢』、初演

7月3日より河原崎座で、歌舞伎『慙紅葉汗顔見勢』が初演されました。4世鶴屋南北、2世瀬川如皐の作品です。
7代目市川団十郎が、外記左衛門、政岡、仁木弾正、男之助、道哲、與右衛門、かさね、頼兼、勝元、高雄の10役の早変わりを勤めました。

参考文献
『古典の事典』13(古典の事典編纂委員会編、河出書房新社、1986年)、『物語江戸の事件史』(加太こうじ、立風書房、1988年)、『歌舞伎年表』、『国書総目録』、「七代目市川団十郎の合巻」(佐藤悟、『歌舞伎研究と批評』、歌舞伎学会、2001年6月)

人物

間宮林蔵  安永4年(1775)~弘化元年(1844)

間宮林蔵は、常陸国筑波郡上平柳村(茨城県筑波郡伊奈町上平柳)の農民の家に生まれました。子どもの頃から数学に秀でており、やがてその才能を幕吏に認められて、寛政2年(1790)頃に江戸に出ました。このときの幕吏というのが、林蔵の師である村上島之丞だとも言われています。林蔵は島之丞から地理学を学んだのち、寛政11年(1799)の蝦夷地巡検の際には島之丞に随行して蝦夷地へ渡ると、蝦夷地御用雇(のち箱館奉行雇)に任命されました。また、折しも蝦夷地測量のために箱館に来ていた伊能忠敬(寛政12年「事件・風俗」、文政元年「人物」参照)に師事して測量術を学ぶと、東蝦夷地と国後、択捉の測量に従事しました。文化4年(1807)、日本との通商を求めて来航したものの幕府に拒否されたロシア大使レザノフの部下が、蝦夷地を攻撃する事件が起こったとき、林蔵はちょうど攻撃地となった択捉島の紗那にいました。紗那では警備体制が整っていましたが、守備する幕兵たちの中からは、上陸してきたロシア兵たちの姿を見て逃げ出す者が続出し、結局は戦わずして退却してしまいます。このとき林蔵は、徹底抗戦することを主張していました。のちに、不戦退却について江戸奉行から取り調べを受けますが、林蔵は抗戦の意思があったことを訴え、おとがめなしという裁決となっています。

このロシア兵による襲撃事件に脅威を感じた幕府は、樺太へ調査隊を派遣することを決定し、林蔵はこの調査隊に参加することになりました。そして、樺太とシベリア大陸との間に海峡があり、樺太が島であることを確認するという偉業を遂げ(文化6年「事件・風俗」参照)、さらに大陸へ渡って韃靼の風俗などを見分します。その成果を『東韃紀行』と『北蝦夷図説』としてまとめて幕府に献上し、この功労により幕府から特別手当金を与えられました。林蔵はその後も幕府の命で蝦夷地の測量を続けましたが、伊能忠敬や、当時箱館で捕虜となっていたロシア人のゴローニンから、さらに高度な測量術や天測術を学んだため、林蔵が作り上げた蝦夷地沿岸の地図は完成度の高いものとなりました。林蔵の師である忠敬はこの地図のでき栄えをほめ、『大日本沿海輿地全図』(文政4年「事件・風俗」参照)の作成にあたってはこの地図を使用しています。しかし、測量家としての林蔵の活動は、文政4年(1821)に『蝦夷全図』を幕府へ提出したのが最後となりました。

測量の仕事から離れた林蔵は、外国船来航の実態と、それに対する各藩の対応などを調査する仕事に就きました。文政11年(1828)に起こったシーボルト事件(文政11年「事件・風俗」参照)では、林蔵の密告により事が発覚したとも言われます。この事件により樺太探検の英雄という名声から一転、林蔵は人々から白眼視され人望も失いました。しかし、事件の当事者であるシーボルト(文政7年「人物」参照)でさえも、林蔵の海峡発見という功績は賞賛せざるをえず、のちに著作の中で林蔵が発見した海峡を「間宮海峡」と名付けたのです。これにより、林蔵の名は世界中に知れ渡ることになりました。

シーボルト事件後の林蔵は、長崎で幕府隠密としての任務をこなし、弘化元年に病により逝去しました。死後60年が経った明治37年(1904)、樺太探検の功を讃えられて林蔵に正五位が贈られています。

参考文献
『測天量地』(小島宗治編著、清和出版社、1997年)、『間宮林蔵』(人物叢書、洞富雄、吉川弘文館、1967年)、『国史大辞典』
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