明顕山 祐天寺

年表

文化11年(1814年)

祐天寺

観善、寂

5月10日、幡随院31世観善が寂しました。観善は『祐天大僧正利益記』跋文の著者であり(文化3年「祐天寺」参照)、飯沼弘経寺、鎌倉光明寺を歴住しました。祐天寺資料には祐天寺の旧随と記されています。法号は乘蓮社運誉上人直阿自省観善大和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

四谷千部講

7月、四谷千部講604霊などの15日切回向が始まりました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

米屋久右衛門逝去

8月2日、米屋久右衛門が逝去しました(「説明」参照)。法号は念誉心光恵慶信士です。米屋久右衛門の家は川瀬石町(現、中央区日本橋)にあり、祐天寺に代々多くの法号を納めている信者です。祐東の名号が入った位牌表面には「常灯明施主」と書かれており、常灯明を寄進した人物と思われます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、米屋久右衛門位牌(祐天寺蔵)

玉樹院、逝去

8月26日、のちに12代将軍となる家慶の子息が逝去しました。祐天寺資料に納めてある法号は、玉樹院殿智月英昭大童子です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐水名号付き経塚、建立

9月、大坂源正寺で祐水名号付き経塚が建立されました。住職円随は祐天上人100回忌報恩のためと庫裏と方丈の再建を願って、阿弥陀経10万巻の読誦を発願したのですが、それがすでに14万巻に達したので、それを記念して経を埋める経塚を建立したものです。表面には「當寺開山祐天大僧正」、「経塚」の文字とともに、祐水筆の名号が彫られました。

参考文献
祐水名号付き経塚刻文(大阪源正寺)

孤雲室、碧雲室と改名

秋、増上寺の学寮孤雲室が碧雲室と改名されました。「孤は孤独の称がある」として、大僧正在禅が寮主順良に改めさせたのです。

参考文献
『縁山志』8

扇の芝

この年に序文が成立した『遊歴雑記』初編に、この頃の祐天寺の様子が描かれています。それによると、本堂の前の石灯籠の際に、扇を開いたような形に1段高く土を盛った部分があり、芝生が生えていたそうです。そして、その要にあたる部分には丸い石があったそうです。この場所にはもともと、祐天寺起立以前にあった善久院が建てられていたそうで、昔仏堂のあった場所を踏み荒らすことは良くないということで芝生が設けられたそうです。

参考文献
『遊歴雑記初編』1(東洋文庫499、十方庵敬順、朝倉治彦校訂、平凡社、1989年)』

説明

米屋久右衛門

米屋久右衛門家は、代々祐天寺に法号を納めている信者です。初代 米屋久右衛門は、越前国の「向当原村」(武生市匂当原町)の名主 田中三郎右衛門の弟として生まれました。

兄 三郎右衛門は藩主の側に仕えるお伽衆も勤めるほど藩主 牧野英成に寵愛されていました。久右衛門は兄のつてと妻の持つ縁故関係により、藩主が江戸藩邸に出勤する際にも同行を命じられ、江戸藩邸出入りの商人を勤めるようになりました。

米屋の最初の業態は、牧野家の家臣団に給付する扶持米需要を満たすため、米を精米して納入する米商人で「こめや」と号していました。しかし扶持米と、米を搗く労働力の納入という家業形態は、しだいに人宿―六組飛脚屋仲間の1例へと変わっていきます。

藩主の駕籠かきや供回り、江戸藩邸において雇用する奉公人、参勤交代時に雇用する奉公人、江戸城門番など、大名家が必要とする奉公人を斡旋するのです。出入り先も田辺藩牧野家のほかに、福島藩板倉家、沼津藩水野家、吉田藩松平家、大多喜藩松平家などに広がっていきました。川瀬石町の米屋の家は、元文元年(1736)11月に屋敷を購入したことが資料によって知られます。

参考文献
「江戸における人宿の生成と発展―六組飛脚屋仲間米屋田中家を事例にー」(市川寛明、『東京都江戸東京博物館研究報告』7、江戸東京博物館、2001年3月)

人物

徳本

宝暦8年(1758)~文政元年(1818)

徳本は、紀伊国日高郡志賀村(和歌山県日高市)に生まれました。幼名は三之丞とい言い、伝説によると、わずか4歳のときに隣家の子どもの死を見て無常を感じ、10歳の頃から念珠を肌身離すことなく念仏を称えていたそうです。また、手習いをする際にも、ほかの子どもたちと違って「南無阿弥陀仏」の六字名号を写すことを好み、家で秘蔵の祐天上人名号をひそかに持ち出してひたすらに写していたとも言われます。幼い頃から出家を望んでいましたが、嫡子であったために両親がなかなかこれを許さず、水垢離や高声念仏の修行を積んだり、同じ日高にある浄土宗の往生寺の大円から五戒を受けるなどの日々を送っていました。

天明4年(1784)6月、大円を師として得度した徳本は、ようやく念願の出家を果たします。天明5年(1785)に30日間の不断念仏を修してからの徳本は、宗義も学ばず山谷に草庵を結んで五穀を断ち、長髪のまま裸の上から袈裟を着けるという異相で、草庵を各地に移動させながらただひたすらに念仏を称え、荒行を積んでいきました。その期間は20年以上にもわたり、その苦行の中で自ら念仏の教えの要諦を得たと言います。

それからの徳本は、念仏の教化のために各地を巡る旅に出ました。その足跡は故郷の紀伊を中心に、河内国(大阪府)から飛騨国(岐阜県)にまで及びます。この間にも徳本は異相のまま苦行を続けていましたが、享和3年(1803)10月に京の鹿ヶ谷法然院において長髪を剃り落としました。翌11月には江戸の小石川伝通院学頭の鸞洲に招かれ、伝通院住職の智厳から宗・戒両脈を承けます。しかし、山谷にて異相で荒行を積んできた徳本の存在は、江戸の寺社奉行にとって注意すべき者に見えたようで、奉行所から伝通院や増上寺へ、徳本の経歴などを提出するよう指示が来たのです。このとき両寺は、徳本の修行には宗規に反することは何もないとかばい通しました。これは、近年風紀が乱れがちな宗内の僧侶たちに対して、徳本の自然と対峙する厳しい姿から、僧としての本来の在り方に立ち返ることを促そうとする意向と、さらに徳本の庶民に対する教化力に期待するところがあったためと言われます。そして、巧みな説法と、ただひたすらに名号を称えれば良いというわかりやすい教えによって、徳本が教化に訪れた地域では多くの念仏講が生まれていきました。

いったん江戸を離れて故郷の紀伊国を中心とする地域で教化を行った徳本は、文化11年6月に再び江戸へ下向し、小石川伝通院で訪れる人々に十念を授けました。以来、江戸を中心に相模国(神奈川県)や下総国(千葉県)、さらに加賀国(石川県)や越後国(新潟県)へと活動を広げていきます。徳本のいるところは常に十念を求める人々であふれたため、江戸での徳本の滞留地を決めることは非常に難しい問題でしたが、文化14年(1817)に小石川一行院を再興して捨世寺とし、徳本はここの中興開山となることに決定しました。実際に寺社奉行からこれらの許可が下りるのは翌15年のことで、9月には一応の伽藍が整いますが、入仏供養が終わらないうちに徳本は遷化してしまったのです。真新しい本堂で行われた葬儀の導師は、徳本の江戸滞留に力を尽くした増上寺典海が勤め、遺体は一行院に葬られました。徳本独特の丸い書体で書かれた六字名号は「徳本名号」と称され、この名号が刻まれた石塔は全国各地に建立されています。

参考文献
「徳本と原町一行院について」(田中祥雄、『大正大学研究紀要』62、大正大学出版部編集・発行、1976年)、『浄土宗人名事典』(大橋俊雄、斎々坊、2001年)、『小石川傳通院志』(『浄土宗全書』19)、『国史大辞典』
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