明顕山 祐天寺

年表

文化09年(1812年)

祐天上人

明幻院、寂

正月10日、のちに12代将軍となる徳川家慶の御台楽宮が流産をされました。流産の遺骸を内々におさまが長持に入れて祐天寺に持ち来たり、土葬にしました。胎児は祐天寺に葬られました。法号は明幻院殿春玉露光大童子です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐水、名号の裏書きを書す

8月8日、知恩寺の祐水は祐天上人名号の裏書きを書しました。

参考文献
祐水筆祐天上人名号裏書き(祐天寺蔵)

浄邦院、寂

9月20日、徳川家慶の御台楽宮が流産をされました。胎児は祐天寺に葬られました。明幻院殿とともに葬った穴の場所に印として、極めて小さい地蔵菩薩像を祐天寺で建て置きました。法号は浄邦院殿玉池清蓮大童子です。
この出来事は、『寺録撮要』では文政9年に記されています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

寺院

目黒不動の富籤

富籤は富突とも呼ばれ、寺社が諸堂の修築や再建などにかかる費用を得るために興行されたと言われます。これがやがて市民の間でも人気を呼び講が作られるほどになったため、幕府は富突講禁止令を出しました(元禄5年「寺院」参照)。しかし、寺社の諸堂修復費用にあてるための富籤興行は、「御免富」として幕府からの許可を得ることができたため、多くの寺社で富籤が行われました。

寛政の改革(天明7年「事件・風俗」参照)で制限が加えられたものの、文化・文政期(1804~1829)にはますます興行が盛んになり、江戸では毎日のようにどこかの寺社境内で富籤が行われるほどだったそうです。なかでも、文化9年に富籤興行が許可された目黒不動と湯島天神、そして享保年間(1716~1735)から公認を受けていたという谷中感応寺で行われる富籤は「江戸の三富」と呼ばれるほどの人気ぶりで、寺門静軒の『江戸繁昌記』にも「天下に鳴り響いている」と記されています。

参考文献
『目黒区史』(東京都立大学学術研究会編、東京都目黒区、1961年)、『江戸の盛り場』(海野弘、青土社、1995年)、『江戸学事典』

事件

嘉兵衛、拉致される

8月、択捉の水産物を積んで箱館へ向かう途中だった高田屋嘉兵衛(寛政11年「人物」参照)が、国後島の沖合でロシア軍艦に捕まり、カムチャツカに拉致されてしまいました。嘉兵衛を連れ去ったのは、文化8年(1811)に艦長のゴローニン以下8人の乗組員が日本の藩士によって逮捕されたディアナ号(文化8年「事件・風俗」参照)です。副艦長だったリコルドはロシア皇帝の命令で日本へ漂流民を送還してきたのですが、国後島で水を補給していたとき、偶然通り掛かった嘉兵衛らの船を見て、ゴローニンたちの安否を確認しようと捕まえたのです。しかし、この事態にも嘉兵衛は決してひるむことなく、ロシア船に乗り移る前に「蝦夷地での紛争を収めたい」という内容の手紙を書き残し、連行されていったと言われます。リコルドはゴローニンが無事であることを聞くと、捕虜の縄を解いて非常に紳士的に応対し、嘉兵衛に対しては同室で生活させるほどに優遇したそうです。

カムチャツカに着いた嘉兵衛はロシア語を学び、リコルドとは深い友情と信頼関係とを築いていきました。そして嘉兵衛はリコルドに、ゴローニン釈放のための日露間の交渉役を申し出て、自分を日本へ帰すよう粘り強く説得を続けたのです。嘉兵衛の誠実な人柄に信頼を寄せるようになっていたリコルドはすべてを嘉兵衛に託すことを決心し、文化10年(1813)5月、嘉兵衛を連れて再び国後島へ向かいました(文化10年「事件・風俗」参照)。


豊前・豊後の大一揆

文化8年(1811)から翌9年にかけて、大規模な打ち壊しや一揆が、豊前・豊後両国内の諸藩や幕領地で次々と起こりました。これらの騒動の火付け役となったのは、文化8年11月に豊後国岡藩(大分県竹田市)で起こった農民一揆です。惣奉行の横山甚助が出した新法により領民たちの生活は苦しくなる一方で、農民たちはこの新法の廃止などを求めて蜂起しました。藩の家老は要求を受け入れることを約束しますが、なかなか具体的な政策が行われなかったために農民たちは豪商の屋敷などを打ち壊し、さらに文化9年には城下で藩士と衝突したのです。この一揆で100人以上の農民が逮捕されましたが、奉行の横山も失脚のうえ領外追放となりました。

岡藩の一揆の影響は、すぐに同国の臼杵藩(大分県臼杵市)に及び、文化8年12月に村役人などの屋敷が打ち壊しに遭っています。文化9年正月には延岡藩豊後領(大分県大分市、国東市)や佐伯藩(大分県佐伯市)で騒動が起こり、同年2月に豊前国中津藩(大分県中津市)、3月に日出藩(大分県速見郡日出町)や幕領地の宇佐郡(大分県宇佐市)、島原藩豊州領(大分県宇佐郡、宇佐市、東国東郡辺り)などでも豪商の屋敷などが打ち壊されました。

現在大分県となっている諸藩のほとんどを巻き込んだこの大規模な一揆は、財政の建て直しのために藩が打ち立てた新法と、その新法により特権を得ることになった一部の豪商・豪農たちに対する、農民たちの精いっぱいの抵抗でした。農民たちが一揆の際に突き付けた要求はほとんど聞き届けられますが、一揆参加者には重い処罰が下され(明和5年「解説」参照)、その代償は決して安いものではなかったと言えます。

参考文献
『ウラー・ディアナ』(田中明、近代文藝社、1995年)、『堂々日本史』20(NHK取材班編、KTC中央出版、1998年)、『江戸時代人づくり風土記』1(ふるさとの人と知恵北海道、牧野昇ほか監、加藤秀俊ほか編、農山漁村文化協会、1991年)『三百藩藩主人名事典』4(藩主人名事典編纂委員会編、新人物往来社、1986年)、『国史大辞典』

出版

『解脱衣楓累』

この年、鶴屋南北により『解脱衣楓累』が執筆されました。台帳には文化9年8月とあり、同月市村座で上演するために書かれたことは疑いありませんが、なぜか上演はされませんでした。
僧空月は愛人お吉と心中しようとしますが心変わりして生き残ります。空月がお吉の首を持ち歩いたところお吉の死霊は空月に付きまとい、さらにお吉の妹累に乗り移ります。結局、空月はお吉の弟である金谷金五郎に討たれ、累は夫与右衛門に殺されるという内容です。

参考文献
『歌舞伎年表』、『解脱衣楓累』(『鶴屋南北全集』4、三一書房、1972年)、「『解脱衣楓累』解説」(大久保忠国、『江戸文学新誌』4、未刊江戸文学刊行会、1959年)

芸能

『新累世俗語』、初演

5月28日より森田座で、歌舞伎『新累世俗語』が初演されました。とうふや娘累を重太郎、高尾を粂三郎が演じました。この芝居限り上坂(大坂へ上る)役者として、重太郎、友右衛門、三右衛門らがいました。

参考文献
『歌舞伎年表』、『解脱衣楓累』(『鶴屋南北全集』4、三一書房、1972年)、「『解脱衣楓累』解説」(大久保忠国、『江戸文学新誌』4、未刊江戸文学刊行会、1959年)

人物

平田篤胤  安永5年(1776)~天保14年(1843)

国学の大家であり、幕末の尊王攘夷運動の思想の源ともなった平田篤胤は、雪深い出羽国秋田藩(秋田県秋田市)の城下町で、秋田藩士大和田氏の4男として生まれました。篤胤のほかに7人の子を抱えた大和田家は武家といえども裕福ではなく、篤胤は幼いときから親戚などの家に里子や養子として預けられ、両親の愛情薄い少年期を過ごしたと言われます。

20歳となった正月8日、篤胤は突然脱藩して江戸へ出ました。秋田には正月8日に家を出た者は2度と家には戻らないという諺があり、おそらく篤胤はこの諺どおりに故郷へは戻らない決心をして出奔したものと思われます。一説にこの突然の出奔は、養家先での人間関係のこじれなどがあったためと言われますが、自らを「頑固で父母の言うことをきかない子どもだった」と言っているように、篤胤にとって故郷は窮屈で嫌な思い出しかないところだったのかもしれません。

江戸へ出てからの篤胤は、貧しさに耐えながらも学問に打ち込みました。やがて、その学問好きが見込まれ、寛政12年(1800)に備中松山藩(岡山県)の藩士平田篤穏の養嗣子となります。この翌年の享和元年(1801)に著作を通じて本居宣長(寛政10年「人物」参照)の思想に傾倒して宣長の門人になったと自称していますが、実際に篤胤が宣長の著作を知ったのは享和3年(1803)のことです。そして篤胤が宣長の門人となったのは文化2年(1805)で、このとき篤胤は「夢の中で宣長に会って師弟の契りを結んだのでどうか弟子にして欲しい」という内容の書簡を、宣長の子の春庭に送ったそうです。

文化元年(1804)、29歳の篤胤は「真菅乃屋」(のちに『気吹乃屋』と改める)という名の国学の講義所を開きました。このときの門人はたった3人でしたが、文化5年(1808)には神祇官(諸国の官社を総括・管理する官庁)の長官である神祇伯の白川家から神職たちへの古学教授を委嘱されます。そして、精力的な篤胤の講義に門人は増えていきました。その数は、篤胤没後の門人を名乗る人も含めると1、300人以上にもなったそうです。

開業の頃の篤胤の学説は宣長の影響を強く受けたものでしたが、文化10年(1813)刊行の『霊之真柱』で「霊」が死後の世界である「幽冥」へ行くことを説いた篤胤は、独自の霊魂観や生死観を展開していきました。古い伝説から、宇宙の生成や幽界について解明しようという篤胤は、文献からだけではなく実地で幽界を研究するために、幽界とこの世とを行き来することができるという少年や、生まれ変わる前の記憶を持つという少年に取材をし、それぞれ『仙境異聞』、『勝五郎再生記聞』という本にまとめています。

しかし、篤胤の学説はすでに宣長のものとは大きく違ってしまっていました。文政6年(1823)に松山藩を致仕した篤胤は、京に上って著述を仁孝天皇に献上し、本居家を訪ねて宣長の墓参をするという宿願を遂げますが、その際に出会った宣長の門人たちは篤胤を無視、あるいは排斥したと言います。それでも篤胤の研究心はとどまらず、インド学、中国学、暦学、易学など幅広い学問に力を注ぐ一方で、数多くの著作を書いたり尾張藩に出仕するなどしました。

しかし天保12年(1841)に篤胤は、著作とその思想が不穏であるとして、幕府より著述差し止めと国元への帰藩を命じられました。2度と帰ることはないと決めていた故郷に帰った篤胤は、十五人扶持の藩士となることができましたが、何よりも再び江戸へ戻ることを強く願っていました。しかし、その願いもむなしく、天保14年に篤胤は68歳の生涯を閉じるのでした。

参考文献
『平田篤胤』(山田孝雄、畝傍書房、1942年)、『国史大辞典』、『日本古典文学大辞典』
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