正月10日に春玉露光大童子、9月20日に玉池生蓮大童子が祐天寺に葬られました。いずれも将軍継嗣家慶(のちの12代将軍)とその御簾中楽宮との御子です。流産であったため亡骸は長持に納められ、江戸城西丸御殿女中の於さまによって内々に運ばれました。祐天寺では埋葬された場所に小さな地蔵尊を建てて印としました(天保元年「祐天寺」参照)。
8月8日、知恩寺の祐水は祐天上人名号の裏書きを書しました。
9月20日、徳川家慶の御台楽宮が流産をされました。胎児は祐天寺に葬られました。明幻院殿とともに葬った穴の場所に印として、極めて小さい地蔵菩薩像を祐天寺で建て置きました。法号は玉池清蓮大童子です(天保元年「祐天寺」参照)。
この年、鶴屋南北により『解脱衣楓累』が執筆されました。台帳には文化9年8月とあり、同月市村座で上演するために書かれたことは疑いありませんが、なぜか上演はされませんでした。
僧空月は愛人お吉と心中しようとしますが心変わりして生き残ります。空月がお吉の首を持ち歩いたところお吉の死霊は空月に付きまとい、さらにお吉の妹累に乗り移ります。結局、空月はお吉の弟である金谷金五郎に討たれ、累は夫与右衛門に殺されるという内容です。
5月28日より森田座で、歌舞伎『新累世俗語』が初演されました。とうふや娘累を重太郎、高尾を粂三郎が演じました。この芝居限り上坂(大坂へ上る)役者として、重太郎、友右衛門、三右衛門らがいました。