明顕山 祐天寺

年表

文化08年(1811年)

祐天上人

常宣寺禅誉、祐天名号などを受ける

正月7日、白河(福島県)常宣寺住職禅誉定冏は藩の寺社役所からの呼び出しで出頭しました。霊巌寺の方丈が赤子を間引く風習を嘆き、受苦図、祐天上人名号、『祐天上人利益記』を常州などへ遣わしたところ民衆の教化に役立ったので、当領分でも実意の僧に寄託し、民衆教化を進めたいという申渡し書とともに、受苦図の幅、祐天上人名号1、000枚などが渡されました。

参考文献
『白河楽翁と子返し』(常宣寺編集・発行、1958年)

弁山祐輪、示寂

閏2月6日、弁山祐輪が示寂しました。祐全の弟子で、麻生浄慶寺(川崎市)15世でした。浄慶寺に住職として8年住み、没年は53歳でした。

参考文献
浄慶寺資料、『寺録撮要』1

常宣寺三界万霊塔、建立

8月、白河常宣寺に祐天上人名号付き三界万霊塔が建立されました。
導師は24世定冏です。

参考文献
祐天上人名号付き三界万霊塔刻文(福島県白河常宣寺)

小峰寺名号石塔、建立

白河(福島県)小峰寺(寛政11年「祐天寺」参照)に祐天上人名号石塔が建立されました。

参考文献
祐天上人名号石塔刻文(福島県白河小峰寺)

深川講中、阿弥陀堂前用水器を寄進

深川講中が阿弥陀堂前用水器2個を寄進しました。直径3尺4寸5分(約105センチメートル)です。

参考文献
『祐天寺財産目録』(祐天寺蔵)

御膳講中、15日切回向を申し込む

御膳講中1万3、621霊が15日切回向の申し込みをしました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

雲光院名号付き墓石、建立

2月15日、深川三好町(江東区三好)の雲光院に、白子屋の祐天上人名号付き墓石が建立されました。祐天上人の真筆に間違いないとする祐東の文と名が、名号の脇に彫ってあります。

参考文献
祐天上人名号付き白子屋墓石刻文(三好雲光院)

寺院

法然上人600回遠忌

正月18日、法然上人600年遠忌が勅命により知恩院で開白されました。この遠忌にあたって、光格天皇より法然上人へ新たに「弘覚」の大師号が諡られました。
法然上人600回遠忌は、この年の春には金戒光明寺などでも勤修されています。

参考文献
『知恩院史』(藪内彦瑞編、知恩院、1937年)、『浄土宗大年表』、『華頂誌要』(『浄土宗全書』19)

風俗

ロシア人、逮捕

6月に国後島で、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニンを含めた8人の乗組員が、松前奉行に逮捕されました。ゴローニンたちはロシア皇帝の命を受けて千島列島の測量に来ていたのですが、食料や薪などを補給するために国後島に上陸したところ、島を警備中だった松前奉行に捕らえられたのです。文化3年(1806)に薪水給与令(文化3年「事件・風俗」参照)が発布されていたにもかかわらず、奉行所がこのような処置に踏み切ったのには、理由がありました。

文化元年(1804)、日本との通商を求めてロシア使節レザノフが長崎に来航しました。しかし翌2年(1805)に幕府に拒否されると、その帰国途中、レザノフの部下であるフヴォストフをはじめとする兵士たちが、樺太や択捉、そして奥州の南部などを襲撃したのです。のちに「文化の変」あるいは「丁卯の変」と呼ばれたこの事件に、ロシアが攻めてくるのではないかと大変な衝撃を受けた幕府は、蝦夷地に厳戒な警備を敷くとともに、ロシア船が来航したら打ち払うか捕らえよという命令を下していました。
 ゴローニンたちはロシア領のアイヌ人からの通報により、この事件のことを知っていましたが、自分たちは食料などが欲しいだけで、攻撃の意思など全くないことを伝えれば、日本人にもわかってもらえると思っていました。一時は日本からの砲撃を受けますが、桶に水の入ったコップと薪と米、そして貨幣を入れて流したところ、これを受け取った日本人は砲撃を止め、ゴローニンたちに上陸を許可しました。上陸したゴローニンたちは、フヴォストフたちが樺太などを襲撃した理由やレザノフの居場所などを尋問されました。そして食料の供給のことに話が及ぶと、松前奉行の判断が必要なのでロシア人1人を人質に残して欲しいと言われます。ゴローニンがこれを拒否し、その場から逃げ出そうとしたところ捕縛されてしまいました。

ディアナ号副艦長のリコルドは「艦長の命令があれば、全員命を投げ出しても救出に向かう」と憤慨していましたが、やがて「必ず助けにくる」との手紙を残してカムチャツカに帰りました。そして翌9年(1812)、今度はリコルドが日本人を拉致するという事件が起こったのです(文化9年「事件・風俗」参照)。


雷電、引退

2月、天下無双と謳われた力士の雷電為右衛門(寛政9年「人物」参照)が引退しました。寛政2年(1790)に24歳で始まった土俵生活は21年間にわたり、その間に雷電が負けたのはわずかに10回、勝率は9割以上にも及びます。

雷電最後の土俵となったのは文化7年(1810)10月場所でした。このとき雷電は7勝1敗1分けで、27度目の優勝を果たしています。翌8年の2月場所の番付にも名前が載りましたが、雷電が土俵に上がることはありませんでした。引退後、相撲頭取(現代で言う親方。江戸では『年寄』、京坂では『頭取』と呼ばれた)に任命された雷電は、部屋の運営や弟子の育成に努めたほか、弟子を連れて諸国巡業を行いました。雷電の行く先々ではたくさんの観客が集まり、引退したとはいえ、その人気ぶりは衰えることがなかったそうです。

参考文献
『江戸時代人づくり風土記』1(ふるさとの人と知恵北海道、牧野昇ほか監、加藤秀俊ほか編、農山漁村文化協会、1991年)、『ウラー・ディアナ』(田中明、近代文藝社、1995年)、『雷電為右衛門』下(小島貞二、學藝書林、1990年)、『日本相撲史』上(酒井忠正、大日本相撲協会、1956年)、『国史大辞典』

出版

『花江都歌舞妓年代記』

戯作者の烏亭焉馬(文化7年「人物」参照)が編集した、歌舞伎の興行年表です。この年から文化12年(1815)にかけて5編9巻15冊が刊行されました。当初は江戸歌舞伎の始まりとされる寛永元年(1624)から文化7年(1810)までを収録する予定だったようですが、実際には文化元年(1804)までの年表となっています。

興行記録のみならず、役者評判記の引用や興行時のエピソード、名せりふや狂歌なども収められ、勝川春亭の挿絵が載せられるなど、一種の読本となっています。また、焉馬は5代目市川団十郎(寛政8年「人物」参照)と親しかったことから、団十郎についての記事が多く載せられているのも本書の特徴です。


『謎帯一寸徳兵衛』初演

7月に市村座で、歌舞伎『謎帯一寸徳兵衛』が初演されました。4世鶴屋南北と福森久助の合作です。『夏祭浪花鑑』の筋になぞらえて作劇されています。

浪人の悪者大島団七は玉島兵太夫を殺し、兵太夫の娘お梶をだまして「敵討ちの助太刀をする」と言って夫婦となります。しかし、病の末に顔に傷を受けたお梶を入谷田圃で返り討ちにしました。けれどもついにはお梶の姉や、お辰の夫の一寸徳兵衛に討たれるという筋です。お梶の殺し方などに、累物と綯い交ぜにされている部分があるという説もあります。

参考文献
『図説 江戸の演劇書』歌舞伎篇(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編、八木書店、2003年)、『歌舞伎の歴史―新しい視点と展望―』(歌舞伎学会編、雄山閣出版、1998年)、『日本全史』、『歌舞伎事典』、『歌舞伎年表』、「『謎帯一寸徳兵衛』考」(三浦広子、『歌舞伎 研究と批評』13、歌舞伎学会、1994年)

人物

村田春海  延享3年(1746)~文化8年(1811))

村田春海は江戸日本橋にある干鰯問屋の次男として生まれました。通称を平四郎(のちに治兵衛)、号を織錦斎、琴後翁と言い、雅名として春海を名乗りました。父が賀茂真淵(延享3年「人物」参照)の下で国学や歌学を学んでいたことから、7歳年上の兄・道郷とともに真淵の門下生となり、また、儒学や漢詩文を服部南郭(寛保2年「人物」参照)の門人である服部仲英や鵜殿士寧に学びました。若い頃の春海は歌学よりも漢詩文に興味があったと言われますが、幕府御連歌師阪家の養子となり、阪昌和と称していた時期もあったそうです。

しかし、兄が30歳という若さで病死したために村田家に呼び戻された春海は、兄の代わりに江戸屈指とも言われる豪商の家を継ぐことになりました。もともと豪胆で、堅苦しい学問に打ち込むことは得意ではなかった春海の生活は勢い派手になり遊名を「漁長」と名乗る豪遊ぶりは、十八大通の1人に数えられるほどだったそうです。そのためみるみる家業は傾き、やがて倒産。春海は日本橋から浅草、そして八丁堀と住まいを替え、国学や歌学の師となってどうにか生計を立てるという暮らしを送るようになります。この頃から春海は、同じ学問を志す者たちとも交流を深めるようになり、上方へ赴いて木村蒹葭堂(宝暦12年「人物」参照)や皆川淇園、そして本居宣長(寛政10年「人物」参照)などと知り合いました。春海は、同じ真淵門下である宣長に対し、その儒学排斥主義と過剰なまでの古代への崇拝ぶりに反発を覚えたものの、学問においては尊敬しており、真淵の家集である『賀茂翁家集』の編纂にあたっては宣長の助言を仰いでいます。また、幼い頃からともに真淵のもとへ通い、兄のように親しくしていた加藤千蔭からは生活の援護を受け、長いこと途絶えていた交友を結び直しました。やがて松平定信(天明8年「人物」参照)などの諸大名から文才を認められて俸禄を給わり、門人も増えて生活が安定していくうち、春海はより一層国学と歌学に打ち込むようになります。春海と千蔭は真淵の正しい後継者として、春海は文章に優れ千蔭は和歌に優れているとそれぞれに賞されました。そして、ともに古今調の流麗な歌風を確立し、「江戸派」と称される一派を打ち立てました。高まる2人の名声はやがて江戸に下向してきた妙法院宮門跡の真仁法親王〔光格天皇(寛政5年「事件・風俗」参照)の弟〕にも届き、谷文晁などとともに召されて和歌を求められています。

また春海は、書においても優れていたほか、小説や歌集、随筆、そして仮名遣いや五十音の研究書など多くの著作を残しました。文化8年2月、66歳となった春海は、74歳でこの世を去った千蔭の長寿を羨み、彼のように長生きできたなら門下生たちにもっといろいろ教えられただろうにという歌を詠んで息を引き取ったと言います。現在、春海の墓は江東区本誓寺にあります。

参考文献
「村田春海」(『森銑三著作集』7、森銑三、中央公論社、1971年)、『日本古典文学大辞典』
TOP