正月26日、御作事方仮役鳥井又左衛門と、御手大工佐藤幸次郎が下馬札の見分に来寺しました。表裏両門とも建て替えと決まりました。
27日、大久保安芸守に昨日見分が行われた旨の届書を出しました。また、裏門の下馬札も建て替えとなったことにつき、願書を出しました。
2月1日に御手大工佐藤幸次郎が来寺して、下馬札の高さ寸法を決めました。
4月6日、下馬札の建て替えが行われました。御徒目付西村吉之丞、御小人目付谷津会助らが立ち会いに来寺しました。
同7日、建て替えが済んだことを大久保安芸守へ届けました。役人松下三郎兵衛が出会いました。増上寺役所へも同様に届けました。
3月15日、一ツ橋家の徳川治済の母が逝去しました。
祐天寺に納められている法号は善修院殿信慶明順大姉です。
5月20日、11代将軍家斉の側室の香琳院が逝去しました。
お楽の方と言い、12代家慶の生母です。祐天寺に位牌が祀られます。
この年、常念仏資料講4,466霊の15日の回向が始まりました。
百万遍知恩寺54世祐水(寛政5年「祐天寺」参照)は、表門左側の勢至堂を現在の場所に移しました。
寛保3年(1743)~文政5年(1822)
戯作者、落語中興の祖、そして劇界のパトロンといくつもの顔を持つ烏亭焉馬は、江戸相生町(墨田区東両国付近)の大工の息子として生まれました。本名を中村英祝、通称 和泉屋和助と言い、戯号としては鑿釿言墨金、立川談洲楼、桃栗山人柿発斎のほか5、6種類以上がありました。江戸の盛り場の中でも最も賑やかな町で育った焉馬は、幼い頃から芝居や見世物などを観るのがとても好きでした。やがて成長するにつれて自分でも見世物を興行したくなり、安永6年(1777)に両国広小路で行われた見世物「とんだ霊宝」の土産物として『開帳富多霊宝略縁起』という戯文を書きます。これが焉馬にとって初めて単独で発行した著作物となりました。「とんだ霊宝」とは、寺社で開帳される寺宝などを魚や野菜などの乾物を細工してかたどったもので、焉馬はこの「とんだ霊宝」の目録をさらにもじったものを書いたそうです。また、安永7年(1778)に回向院で善光寺如来の開帳(安永7年「寺院」参照)があったときには、平賀源内に相談して背に「南無阿弥陀仏」の名号が浮かぶ「名号牛」を作り上げて見世物にし、大評判を呼んだと言います。
焉馬の戯作者としての活躍は、安永8年(1779)上演の合作による人形浄瑠璃『伊達競阿国戯場』(安永8年「出版・芸能」参照)から始まりました。翌9年(1780)には合作の人形浄瑠璃『碁太平記白石噺』が上演され、やがて新太夫座の立作者にもなります。また、その頃から大田南畝(文政6年「人物」参照)との親交を深めて狂歌もたしなみ、さらに新作落語を披露し合う「咄の会」の第1回目を開催するなど、しだいに焉馬の交友は広くなっていきました。これは焉馬が幕府小普請方を辞めて、町大工の棟梁になったためと言われています。
焉馬のもう1つの顔である劇界のパトロンとしては、何よりも市川団十郎へのひいきぶりが有名でした。団十郎の後援団体である「三升連」を創設するほか、自宅の装飾や調度品には市川家の紋の「三升」を施し、戯号であり居室の呼び名ともなった「談洲楼」は団十郎の音をもじったものでした。5代目 団十郎(寛政8年「人物」参照)とは義兄弟の契りを交わすほどの間柄で、6代目 団十郎が早世すると、5代目の息子で若くして襲名することとなった7代目 団十郎の後ろ盾となって市川家を盛り立てていきました。焉馬の代表作の1つである江戸歌舞伎史『花江都歌舞妓年代記』は、代々の団十郎の業績を世に知らしめるために書かれたもので、そのほかにも団十郎に関する著作物は大変な量になります。
これらのさまざまな世界での活躍により、焉馬は各界における陰の勢力者となっていきました。門人に式亭三馬や柳亭種彦を抱え、戯作者を目指す若者たちを庇護・育成するほか、劇界でも市川家を中心として役者を後援し、役者間で紛争が起きたときにはその仲裁役にもなりました。また、鶴屋南北(文政8年「人物」参照)の助っ人として歌舞伎も手掛けたため歌舞伎界への焉馬の影響も大きく、焉馬をモデルとした歌舞伎の登場人物が描かれるほどでした。
文政5年6月に80歳でこの世を去った焉馬の葬儀の際には、戯作者や落語家のほか役者など合わせて1、500人ほどの著名人が参列したため、その参列者を見物しようと集まった人々で垣根ができるほどだったと言われます。