明顕山 祐天寺

年表

文化05年(1808年)

祐天上人

祐天上人名号石塔、建立

正月25日、長野市西方寺に祐天上人名号石塔が建立されました。

参考文献
祐天上人名号石塔刻文(長野市西方寺)

祐海像胎内に遺言等を納める―その1

祐海遷化後50周忌につき、祐海像の胎内に祐海の遺言等を納めました(文政12・13年「祐天寺」参照)。同胎内にはすでに元文5年(1740)に祐海自身が納めた祐天上人の遺言と名号が入っていました。

参考文献
「祐天寺什物調査概報」(金山正好、1978年、祐天寺蔵)

寺院

在禅、増上寺住職に

4月、念海が辞職したことにより、鎌倉光明寺79世在禅が増上寺55世住職となりました。紀伊国(和歌山県)大立寺で剃度ののち増上寺の祐全寮に入寮した在禅は、毛利重就の正室瑞泰院(天明6年「説明」参照)の願いにより祐天寺に常念仏堂が建立された際、堂の本尊となる阿弥陀如来像の開眼供養疏の文章を書いています(明和6年「祐天寺」参照)。一時期は館林善導寺の在定に随身しましたが、のちに増上寺へ帰山しました。
在任中、6代将軍家宣の100回忌の御忌で千部大会の導師を勤め、丙寅の大火(文化3年「事件・風俗」参照)で山内塔頭が類焼したときには、幕府に霊屋や僧坊などの火除地を申請して、幕府から土地の寄進を受けました。

参考文献
『大本山増上寺史 本文編』(大本山増上寺編集・発行、1999年)、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)

事件

フェートン号事件

8月15日、イギリス軍艦フェートン号がオランダ船と偽って長崎に入港し、さらにオランダ商館員を人質にとって食料や飲料水を強要するという事件が起きました。来航時、フェートン号はオランダ国旗を掲げていたため、長崎奉行所の検使はオランダ船であると認めます。しかし、検使が船へ乗り移ろうとしたところ、突然船員たちは剣を振り上げ、検使たちの乗っていた小舟からオランダ商館員を連れ去ってしまったのです。検使たちは「異船」が来航したとわかり大あわてで逃げ出し、奉行所に報告しました。

当時のヨーロッパでは、ナポレオン皇帝が率いるフランスとそれに対抗するイギリスを中心とした同盟国との間で、ナポレオン戦争と呼ばれる戦乱が続いており、フランスの支配下にあったオランダの船を捕獲するため、フェートン号は日本にまでやってきたのです。しかし、長崎港内にオランダ船の姿はありませんでした。

フェートン号は人質を盾に食用牛4頭、山羊数匹、水4樽、そして薪と野菜を少量要求します。長崎奉行の松平康英はフェートン号攻撃を思案したものの、長崎を警備する役目の佐賀藩鍋島家の武士は帰藩していなかったために実現することができず、泣く泣くフェートン号の要求を飲んだと言います。これに対してフェートン号は人質の1人を返しますが、さらにもう1人の人質を交換条件に、再び水や薪、野菜、果物などを要求しました。奉行所はこの求めにも応じて、無事人質が返されたのです。

フェートン号は17日正午、ようやく長崎から退去しました。そしてその日の夜、松平康英は国威を辱めた罪を償うためとして切腹。この事件以後、長崎奉行所とオランダ商館長とは協議して、来航する船に対しての検査や入港手続きをより厳重なものへと改変させていきました。

参考文献
『英鑑フェートン号事件』(松竹秀雄、くさの書店、1993年)、『出島』(片桐一男、集英社、2000年)、『国史大辞典』

出版

『祐天大僧正利益記』

12月8日、『祐天大僧正利益記』上中下3巻が刊行されました。織田丹後守の家臣寺田市右衛門が祐天上人の身辺で見聞きしたことを書きとどめておいたものを、祐海が写し置き、祐全が加筆して成立したものです。
祐天上人の身辺で起きた利益をあまた書き記しています。

参考文献
『祐天大僧正利益記』(祐天寺蔵)

人物

司馬江漢  延享4年(1747)~文政元年(1818)

司馬江漢は江戸後期を代表する洋風画家です。元文3年(1738)に生まれたとする説もありますが、一般には延享4年に江戸で生まれたとされ、本名を安藤吉次郎と言いました。のちに漢詩を学んだことから、姓を司馬、名を峻、号を江漢と唐風に改めました。

伯父が絵を描く人物であったようで、江漢の自著『春波楼筆記』の「江漢後悔記」に「予六歳の時、焼物の器に雀の模様ありけるを見て、其雀を紙にうつし、伯父に見せつける。十歳の頃に至りては、達磨を描く事を好みて数々画きて伯父に見せけり」とあることから、江漢が幼い頃より伯父の手ほどきを受けていたことがわかります。江漢は14歳で父と死別したことから、この伯父の存在は大きかったと考えられ、伯父の勧めで狩野派の狩野古信(狩野美信の誤りとされる)の門に入りました。

その後、鈴木春重と称して鈴木春信(明和5年「人物」参照)の美人画の偽物を描き、これが好評を得て2代目春信と称される時期もありますが、やがて「和画は俗なり」と言って、南蘋派の宋紫石に入門して唐画を学びます。この紫石を通じて平賀源内(宝暦7年「人物」参照)と出会い、さらに蘭学者の森島中良、洋風画家の小田野直武らとの交流が生まれました。

こうして蘭学や西洋画の研究が始まり、源内から腐蝕銅版画を教えられると、大槻玄沢の協力のもと日本初の腐蝕銅版画の制作を成功させます。天明3年(1783)頃のことでした。

天明の末頃から蝋画と呼ばれる油絵をよく描いていますが、ちょうど天明8年(1788)から寛政元年(1789)にかけて、江漢は長崎へ行きました。旅の途中の大坂では当時博物学者として有名だった木村兼葭堂(宝暦12年「人物」参照)にも会い、自慢の銅版画を見せたりしました。もちろん旅の目的は西洋画の勉強でしたが、絵のみならず西洋の自然科学への関心を持つきっかけともなりました。以後の江漢は、西洋の天文学を紹介した『和蘭天説』(寛政8年「事件・風俗」参照)や、西洋画を紹介した『西洋画談』(寛政11年「出版・芸能」参照)をはじめ『刻白爾天文図解』、『地球全図略説』など数多くの著作を遺しました。

晩年は頭を丸めて世間から離れ、ひっそりと暮らしました。文政元年10月21日、72歳で死去。深川本材木町の慈眼寺(現在は豊島区巣鴨に移転)に葬られました。

参考文献
『近世科学者列傳』(尾崎久彌、新興亞社、1943年)、『画人 司馬江漢の研究』(河西万文、岩森書店、1982年)、『国史大辞典』
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