4月、本堂前用水器2個を畳講中が寄進しました。直径5尺(約167センチメートル)です。
祐全が明和年間に開白した念仏堂の常行念仏は今年まで続けてきました。しかし、毛利家からの祠堂金は前住職の代までに底を尽き、そのうえ日用の掛かりが多く借財がかさんだため、続けられなくなりました。常念仏を休みたい旨を知恩寺54世祐水に申し上げたところ、痛心のことだが仕方がないので常行は休み、三時(1日3回)の勤行供養は勤めるようにと仰せ遣わされました。
京の専念寺17世住職隆円は生涯に数多くの著作をなしましたが、その中でも特に往生伝や高僧伝の編集においては誰よりも優れていました。捨世主義(明和2年「人物」参照)を目指しましたが、師僧の許しが得られずに専念寺17世となったのが38歳のときです。以来、専念寺の経営を行いながらも、布教や著作に忙しい日々を送りました。
享和2年(1802)に初めて隆円が刊行した往生伝である『近世南紀念仏往生伝』3巻は、紀伊国で法友が集めた往生伝に、隆円が加筆して編集したものです。この本が広く人々を教化したため、隆円は八王子(東京都八王子市)大善寺で修学中のうちから編纂を始めていた『近世念仏往生伝』の刊行を決意します。全5編16巻(全15冊)から成るこの本には祐天上人の記事も含まれ、文化3年(1806)から天保元年(1830)にわたって刊行されました。
この年、滝沢馬琴(文化2年「人物」参照)による読本『新累解脱物語』が刊行されました。累という字を分解した「田糸」姫という名の醜婦や、西入という美男などが登場します。
中村幸彦氏は「土地と人物を、前の『解脱物語』にかりた以上には、僅かの類似をしか認め難い」と述べられており、『死霊解脱物語聞書』との影響関係は薄いことがわかります。