明顕山 祐天寺

年表

文化2年(1805年)

祐天寺

義天、遷化

義天が遷化しました。香堂(文政6年「祐天寺」参照)の剃度の師で、洛西石見(京都市西京区)法泉寺に住していました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

岡崎屋勘六の墓石、建立

歌舞伎文字である勘亭流の祖と言われる岡崎屋勘六が逝去し、墓石が建立されました。墓石には祐天上人の名号と法号のほかに、

有かたや心の雲乃晴はたり
只一筋に向ふ極楽

という歌が刻されています。

参考文献
岡崎屋勘六墓石(台東区清光寺)

祐誾、遷化

3月15日、祐全の弟子である祐誾が遷化しました。鎌倉(神奈川県)安養院に住していました。
法号は精蓮社進誉上人堅阿祐誾和尚です。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』

祐全、遷化

4月8日、引退していた祐天寺6世住職、祐全が77歳で遷化しました。
法号は通蓮社得誉上人海阿愚仰祐全大和尚です。引退してから7年が経っていました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

敷石成就と供養塔建立

4月14日に敷石が成就し、祐天名号付き敷石供養塔が建立されました。名号の脇に「敷石志諸群霊等」「施主家現當利益」と刻まれています。

参考文献
敷石成就記念碑の刻文(祐天寺)

祐東実母、逝去

6月13日、祐東の実母が逝去しました。
法号は西光院戒誉妙熏大姉です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

千部修行

千部修行が10年目を迎えるので、次の歳からの許可を得るため8月13日に大久保安芸守へ、来たる寅年(文化3年―1806)から10年分の千部興行の願書を祐東が持参しました。役人松下三郎兵衛に差し出しました。

参考文献
『寺録撮要』3

香観、遷化

9月20日、祐海の弟子である香観が遷化しました。
法号は嚴蓮社熏誉上人香觀和尚です。麻布(港区)法庵寺に8世として住していました。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』

天性寺名号付き墓石、建立

京都三条(中京区)天性寺に祐天名号付き墓石が建立されました。

参考文献
祐天名号付き墓石刻文(三条天性寺)

人物

滝沢馬琴

明和4年(1767)~嘉永元年(1848)

明和4年6月9日、滝沢馬琴は生まれました。父は松平信成に仕える武士、滝沢興義でした。父母の庇護のもと、無事に成長していた馬琴ですが、9歳のとき父が病に倒れます。一家はたちまち生活に困りますが、戸田家に仕えた長兄のもとに母と姉妹たちは身を寄せました。その頃馬琴は主君の孫八十五郎の相手に選ばれます。ところが頭が弱い八十五郎の相手に嫌気がさした馬琴は、身の回りのものを持って出奔してしまいました。14歳のときでした。

その後は転々と居所・職を変え、俳諧師になろうとしたり、医者を志したりしました。24歳のとき、山東京伝の門をたたき弟子入りを乞いました。一時は京伝方に奇遇して『実語教稚講釈』などの代作もしていました。その後は蔦屋に手代として住み込むようになりました。

馬琴の生活が落ち着いたのは27歳のとき、飯田町の下駄屋の娘お百の入婿になったときでした。馬琴は家業の下駄屋を嫌い、手習いの師匠になりましたが、しだいに著述が忙しくなり、それも続けられなくなりました。辞めた年の文化3年(1806)には黄表紙2部、合巻1部、読本は『椿説弓張月』前編など8部も書いていたのです。当時の収入は原稿料のほかに家主としての家賃もあったようですが、生活は切り詰めていたようです。文化4年(1807)には累物である『新累解脱物語』を執筆しました(文化4年「芸能」参照)。

1人息子の宗伯が成長すると医者にしましたが、病弱でした。馬琴は売薬業をして生活費の一部としました。天保6年(1835)5月、宗伯が38歳で親に先立ちました。孫の太郎はまだ10歳にもならない童子でした。その月の1日にはちょうど『里見八犬伝』第9矮巻11の原稿ができ、馬琴は生涯をかけた大著作を執筆中でした。息子の死の衝撃をも乗り越え、また生活のために、馬琴は執筆を続けましたが、その頃から著述数は減じていき、2、3種の続編を続けていくだけで新作はまれになりました。

天保7年(1836)8月14日、馬琴は齢70の賀として書画会を開きました。大勢の人々が集まり盛会となりました。そのとき集まった金で馬琴は御家人株の付いた家を買いました。幼少の太郎の将来を案じてのことです。 11月10日に、その家に移転しました。破屋の修理もあって費用がかさみ、馬琴は秘蔵の書を売ってその費用にあてました。

翌天保8年(1837)7月には娘婿の清右衛門が死に、11年(1840)には妹が死に、12年(1841)2月7日には妻のお百が78歳で死にました。

寂しい晩年の馬琴に追い打ちを掛けたのが、馬琴自身が盲目になったことです。天保11年の正月には細字が見えなくなりましたが、一家のために馬琴は著述を続けねばなりませんでした。馬琴は亡き宗伯の嫁のお路に口述で原稿を書かせ、『八犬伝』の著述を続けました。難しい字や言葉を教えながら書かせることは互いに苦行でしたが、しだいにお路も口述筆記がうまくなってきて、天保12年8月20日、ついに『八犬伝』は脱稿しました。

嘉永元年11月6日、馬琴は苦労の多かった生涯を閉じました。

参考文献
『新累解脱物語』(滝沢馬琴著、大高洋司編、和泉書院、1985年)、『滝沢馬琴』(人物叢書、麻生磯次、吉川弘文館、1959年)、『馬琴一家の江戸暮らし』(中公新書、高牧層、中央公論社、2003年)
TOP