明顕山 祐天寺

年表

享和03年(1803年)

祐天上人

南部利謹室、逝去

正月10日、南部信濃守利謹の正室が逝去しました。黒田筑前守継高の娘です。祐天寺過去帳に納められている法号は圓明院殿心月宗鏡大姉です(「説明」参照)。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

地蔵菩薩像の遷座記録

2月15日、祐全は松本地蔵菩薩像の遷座について記録しました。その記録はのちに写されて『寺録撮要』に収められています。

参考文献
『寺録撮要』2

祐天上人墓前灯籠、寄進

5月、祐天上人墓前灯籠のうち1対が寄進されました。施主は芝飯倉町槍師市右衛門の母(薮誉光月信女)ほかです。

参考文献
祐天上人墓前灯籠刻文(祐天寺)

8世祐応、寂

7月4日、祐天寺8世祐応が示寂しました。法号は誠蓮社實誉上人稱阿愚道祐應和尚です。祐天寺墓地にある祐応の墓石には、12世祐義も合祀されています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、祐応と祐義の墓石刻文(祐天寺)

祐東、9世住職に就任

11月7日、祐東が祐天寺9世住職になりました。

参考文献
『寺録撮要』1

祐麟祖母、逝去

11月18日、のちに祐天寺10世となる祐麟の祖母が逝去しました。木村与兵衛円照の妻でした。法号は旭誉光壽禪定尼です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

説明

南部家と祐天寺

正月10日、南部信濃守利謹(南部利雄の子息)の正室が逝去しました(「祐天寺」参照)。南部家関係ではほかに、別家の八戸藩主南部信真の正室の法号(觀光院殿禪室宗證大姉)などが祐天寺過去帳に納められています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寛政重修諸家譜』4、『藩史大事典』』

寺院

延命院事件

8月、谷中延命院住職の日道が、参詣の女性たちとわいせつな行為に及び、さらに堕胎まで行っていたとして死罪となりました。延命院は慶安元年(1648)に創建されたと伝えられる日蓮宗の寺院で、安産などにご利益があるとして、水戸徳川家の祈願を行うほか、江戸城の奥向きの人々からも篤い信仰を寄せられていました。そのため徳川家の御三家や御三卿、そして大奥にまで、日道と関係のあった女性はいたようです。
1つ間違えば幕府と大奥との対立に発展しかねない難しい事件でしたが、時の寺社奉行脇坂淡路守安董は入念に証拠を集め、このたびの摘発に踏み切ることに成功しました。

安董は翌文化元年(1804)に寺社奉行を解任されますが、文政12年(1829)に再び寺社奉行に就任すると、やがて老中に昇進し辣腕を振るいました。

参考文献
『江戸を騒がせた珍談、奇談、大災害』(檜山良昭、東京書籍、2000年)、『国史大辞典』、『日本全史』)

風俗

八百善の全盛

長く続く太平の世の中で、江戸ではここ数十年ほど美食を求めることが流行っていました。そして、この頃には江戸前料理も誕生し始め、江戸の市民は手軽な食事を屋台で取ったり、お金に余裕があると料理茶屋などに繰り出したりしたため、食べ物を商う店は6、000軒以上もあったそうです。

八百善の祖先は、神田で神社に米を奉納する百姓だったと言います。やがて浅草新鳥越(台東区今戸)へ移り、ここで八百屋と乾物屋を営むかたわら、寺社などへの仕出し料理を扱うようになり、しだいに料理茶屋へと発展していきました。江戸の食通たちをうならせたという八百善の料理は、本膳料理や茶会席料理、さらには主人自ら長崎へ下って研究を重ねたという卓袱料理と広範囲にわたり、初がつお1本に2両1分も支払ったというほど、食材に対してこだわりを見せました。八百善の料理のこだわりぶりを伝える大変有名な話に、茶漬けを作るため、極上の煎茶に合う水を求めて50キロ離れた玉川上水まで早飛脚に汲みに行かせたというものがあります。このときの茶漬けは香の物と合わせて1両2分もしたそうで、八百善の料理は高額なことでも知られました。

「詩は詩仏、書は鵬斎に狂歌おれ、芸者は小勝に料理八百善」と大田南畝(文政6年「人物」参照)に歌われ、川柳にも「八百善と聞いて生姜(けちな人のこと)ははづす也」と詠まれた八百善には、当時の主人4代目栗山善四郎が俳諧を好み三味線も弾くという風流人であったために、大田南畝のほか谷文晁や渡辺崋山などの文人たちが集まりました。文政5年(1822)にこの4代目が書いた『江戸流行料理通』という料理本には、八百善に集う文人たちが絵を添えており、このことも八百善の宣伝にひと役買っていたようです。また、同年に11代将軍家斉が鷹狩りの際に御成になったほか、大名たちもよく八百善を利用していたようで、その繁栄ぶりがうかがえます。


太郎稲荷の流行

この年、浅草中田圃(台東区浅草)にある筑後国(福岡県)柳河藩立花家下屋敷内の太郎稲荷が霊験あらたかであるとして、大勢の参詣者が押し寄せるほどの大人気となりました。そのあまりの人出に、参詣日は1日と15日、28日、そして午の日に限定されましたが、参詣日となると下屋敷までの道には参詣者があふれ、沿道には水茶屋や飯屋などが軒をつらねたと言います。遠くから泊まり掛けで参詣に来る人もいるほどで、石の白狐や神酒徳利、絵馬、燈籠などの稲荷社への奉納物がまさに山のようになったそうです。
 人々の熱狂ぶりはそれから1、2年ほどでやみ、しだいに太郎稲荷は廃れていきましたが、慶応3年(1867)と明治元年(1868)には再び賑わいを見せました。
現在この稲荷社は、入谷2丁目に移転されています。

参考文献
『食前方丈 八百善ものがたり』(栗山恵津子、講談社、1986年)、『八百善物語』(江守奈比古、新文明社、1962年)、『江戸の道楽』(棚橋正博、講談社、1999年)、『江戸のおいなりさん』(塚田芳雄、下町タイムス社、1999年)、『武江年表』2、『日本全史』

出版

『祐天上人御一代記図会』序文、執筆

7月、6巻本『祐天上人御一代記図会』の序文が書かれました。同書の発行は享和4年(1804)です。なお、同書漆山又四郎氏所蔵の本は、享和3年版本です。
祐天上人の伝記を粉飾してつづっている読本で、時代は室町時代に設定されています。羽黒山の山伏龍海房の悪計で、妖術により幼い祐天上人が愚鈍にさせられたなどという逸話も掲載されています。

参考文献
『国書総目録』、『祐天上人御一代記図会』(祐天寺蔵)

人物

喜多川歌麿  宝暦3年(1753)?~文化3年(1806)

喜多川歌麿の本姓は北川氏、幼名を市太郎、のちに勇記または勇助と改めました。出生地や出生日には不明な点が多く、文化3年9月20日に享年54歳で亡くなったことが菩提寺の過去帳からわかるため、逆算して宝暦3年に生まれたとされています。一説によれば京都に生まれ、幼少の頃に母と2人で栃木の釜屋喜右衛門を頼って下向してきたようです。釜屋はもともと近江商人でしたが、栃木では農具を扱い繁盛していました。喜右衛門は狂歌名を持つほどの通人で、歌麿の画才も喜右衛門に見出されたものです。やがて歌麿は喜右衛門の勧めで狩野派の流れを汲む鳥山石燕(豊房)の弟子となり、師の名前から1字をとって豊章と名付けられました。

江戸へ出た歌麿は、画人をはじめ狂歌人、俳人といった通人との交流ができ、吉原や品川の遊郭で遊びを覚えるとともに、人生の機微に触れて人々の情感を感じることで絵師としての素養を身に付けていきました。天明元年(1781)に名前を歌麿と改め、ちょうど同じ頃に蔦屋重三郎(寛政3年「人物」参照)と出会いました。

天明3年(1783)9月には蔦重のもとに寄寓し、専属絵師として狂歌絵本や美人錦絵を描いてしだいに頭角を現していきました。歌麿は勝川春章(寛政4年「人物」参照)の役者絵や鳥居清長、北尾重政などの美人画の様式を学び、それに工夫を加え、やがて独自の作風を見せるようになっていきました。

寛政3年(1791)頃から「婦女人相十品」などの、背景を雲母摺にした美人大首絵を描いて話題を呼びました。大首絵とは、胸部から上のみを描くというもので、微妙な表情や仕ぐさが表現され、それまでの美人画とは一線を画していました。描かれる女性たちは当時江戸で評判の水茶屋の娘や、吉原の遊女たちがほとんどでしたが、寛政後期には寛政の改革の影響を受けて母子の情愛や、教訓物などが多くなり、大首絵は減少していきました。その後も蔦重のみならず40軒以上の版元から依頼を受けて精力的に作画に打ち込みましたが、その反面で作風は様式化されていきました。

歌麿の浮世絵界における華々しい活躍は蔦重の後ろだてがあってこそでしたので、育ての親とも言うべき蔦重が寛政9年(1797)にこの世を去ると、歌麿は心のよりどころを失ったまま、版元からの求めに応じて余裕なく次々と作品を世に送り出すことになりました。自然と作品の質が低下し、最盛期の作画と比べると格段の差が付き始め、さらに享和年間(1801~1803)に入ると2代目歌麿の作ではないかと疑われるほど生彩を欠いていきました。
 美人画の巨匠と謳われ、浮世絵界の第一人者として不動の地位を築き上げた歌麿ではありましたが、晩年は芸術性を失い、幕府の忌避に触れて刑に処せられる(文化元年「事件・風俗」参照)など失意に満ちた寂しいものでした。

参考文献
『歌麿全集』(吉田暎二、髙見澤木版社、1941年)、『歌麿』Ⅰ(名品揃物浮世絵3、ぎょうせい、1991年)、『浮世絵の歴史』(山口桂三郎、三一書房、1995年)、『国史大辞典』
TOP