諸堂修復のため、3月15日より60日の間、本尊阿弥陀如来と開山祐天上人像、霊宝を祐天寺において開帳しました。
3月23日、丹羽和泉守評氏の4男、氏弭が逝去し、祐天寺に葬られました。法号は仰蓮社信譽單阿祐久澤源和尚です(「説明」参照)。
5月8日、京都(下京区)西照寺の義海が寂しました。法号は赫蓮社豊誉上人願阿義海和尚です。のちに祐天寺10世となる祐麟が6歳のときの剃髪の師です。義海は京都小松谷御坊松林寺に6世として住しました。
5月14日、目黒長泉院の螯雲が寂しました。法号は法蓮社當誉智荘大螯雲和尚です。長泉院名号付き石塔に螯雲の書写した名号が刻されています(寛政9年「祐天寺」参照)。
6月25日、百萬遍知恩寺祐水(寛政5年「祐天寺」参照)は、随身達賢の書した宝塔名号に六字名号を書し、裏書を記して、籾井了安という人物に与えました。
丹羽和泉守評氏の4男で三草藩主だった氏弭が、この年に逝去しました(「祐天寺」参照)。祐天寺に篤く信仰を寄せた人物であったようで、祐天寺過去帳には、氏弭(沢源)が施主である法号が多く納められています。実母(凉泉院蓮譽清香大姉)、実母の父などです。また、丹羽長門守氏福(勝道。評氏より2代のちの当主)の正室(光照院殿明誉月峯妙晴大姉)、子息(玉鳳院殿曉月勝雲大童子)の法号も納めてあります。
丹羽氏は譜代で、定府(参勤交代をしない)の大名でした。
清浄華院、阿弥陀堂仮堂建立
伊勢参りや西国巡礼といった神仏に事寄せた旅というものは以前からありましたが、この頃になると江戸近郊の名所巡りはもちろんのこと、上方への物見遊山など、現世的な性格を持った旅を楽しむ人々が増えてきました。
安永9年(1780)に京都で『都名所図会』が刊行されたのをはじめに、各地で名所図会ブームが起き、次々と名所旧跡、有名な社寺、伝説、名物・名産などを載せた本が刊行されていきました。十返舎一九(「人物」参照)の『東海道中膝栗毛』がベストセラーとなったのも、旅には出たいが旅に出る余裕はないといった人々が、手軽に旅をした気分になれる読み物であったからと言えます。
文化元年(1804)には大坂で浪花組と呼ばれる旅宿組合が誕生して、加入者が安全に旅に出られるようにはなりました。しかし通行手形や関所の問題は依然としてありましたし、経済的な問題や、旅の途中で病気になることもあり、旅に出るということは決して容易なことではありませんでした。それでも旅に憧れ、命の危険も顧みずに旅に出たのは、飽き飽きとした日常から抜け出したいという気持ちの表れでもあったのでしょう。
文化7年(1810)に刊行された『旅行用心集』には、旅の心得から宿選びの方法、足の疲れの取り方や天気の予測法、さらには日記の書き方まで載せられていました。現在でも通用するような指摘が多く、まさに旅のノウハウ本とも言えるものでベストセラーとなりました。江戸時代は「可愛い子には旅をさせよ」という諺ができた時代で、旅は自立するための通過儀礼とも考えられていたことから、一生に一度は旅に出たい、旅に出したいという気持ちがあったのです。
江戸幕府の開府より約200年、天下太平の世の中と言っても士農工商の身分制度に縛られ、退屈な時代でもあったのです。
祐全著『開山大僧正祐天尊者行状 中興開創祐海大和尚略伝』が刊行されました。3月に祐全が書いた跋文が備わっています。対校潤文は恵頓(天明5年「祐天寺」参照)が行いました。
11月1日、中村座で累物の歌舞伎『越路花御江戸侠』が上演されました。百姓與右衛門は実は山本勘助という設定です。
『東海道中膝栗毛』をはじめとする膝栗毛シリーズで江戸の大ベストセラー作家となった十返舎一九は、本名を重田貞一と言い、駿河国府中(静岡県)の町同心重田與八郎の次男として生まれました。一九の名は幼名が市九であったことに由来します。若くして小田切土佐守に仕えて大坂に行きましたが、もともと放蕩無頼なたちで、遊郭に入り浸って浪人となりました。材木商の娘婿となってからは、浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』に合作者として加わって作家の道を歩み始めましたが、遊蕩癖は治らず離縁されてしまいました。
寛政6年(1794)に江戸へ出た一九は、蔦屋重三郎(寛政3年「人物」参照)の食客となり、店の仕事を手伝い始めました。齢すでに30歳、当初は浮世絵師を志していた節も見えますが、翌7年(1795)に『心学時計草』という黄表紙を蔦重のもとから刊行したことを皮切りに、以後毎年20部前後の黄表紙や洒落本を書き続けることになります。また、この頃には江戸長谷川町の後家の入り婿となりましたが、狂歌に熱中して遊び回り、遊郭にも足繁く通うなどして、やはりここでも離縁されてしまいます。
傷心を癒すためかどうかはわかりませんが、一九は鹿島(茨城県)、箱根(神奈川県)への旅に出掛けました。そしてこの旅を題材として享和2年に刊行されたのが『東海道中膝栗毛』の初編となる『浮世道中膝栗毛』です。主人公の弥次さんこと弥次郎兵衛と喜多さんこと喜多八の2人が東海道を上り、箱根の関所を越えるまでを描いたもので、まさに「旅の恥はかき捨て」の言葉どおりに繰り広げられる失敗と騒動は、旅の流行(「事件・風俗」参照)と相まって江戸の人々に受け入れられ、一九や版元の意表を突いて大評判となりました。弥次・喜多コンビが活躍する膝栗毛シリーズは8編18冊を『道中膝栗毛』本編とし、金毘羅参詣や宮島参詣、木曽街道などを題材とした12編25冊を『続膝栗毛』として、文政5年(1822)までの21年間という長期間にわたって書き継がれていきました。同時に一九の名前も有名になり、山東京伝(天明5年「人物」参照)、滝沢馬琴(文化2年「人物」参照)に続いて、式亭三馬(文化3年「人物」参照)と並び称されるほどの戯作者となりました。文化元年(1804)には『化物太平記』を書いて手鎖の刑に処せられましたが(文化元年「事件・風俗」参照)、逆に一九の人気は高まるばかりでした。膝栗毛シリーズの売れ行きは好調で、毎編ごとに十数両にもなる原稿料が入り、一九は原稿料だけで生活することのできる最初の職業作家とも言われています。
しかし一九は、とにかく酒と女を好み金遣いが荒かったため、実生活は質素なものだったようです。物事にはこだわらない人物のように思われがちですが、3度目の妻との間に生まれた娘を大名の妾にと望まれた際には「娘を妾に出してまで楽をしたいとは思わない」と言って断り、また旅に出ると宿にこもって黙々と日記をつけていたなど、実直で几帳面な一面もありました。
天保2年7月29日、67歳でこの世を去った一九の辞世の句です。
この世をば どりゃおいとまに 線香の 煙とともに 灰左様なら