正月12日、のちに祐天寺11世となる祐梵の妹が、難産のため逝去しました。生まれた子どももすぐに死亡しました。妹の法号は理誉智香信女、子は得法童子です。
正月28日、祐水の実母が逝去しました。法号は直心院見外智性尼上座で、祐天寺過去帳には「祐水実母中嶋性悟妻」とあります。
4月24日、観光院圓誉祐本大姉のために、祐全が懐中用名号を書きました。祐天寺過去帳によると観光院圓誉祐本大姉とは紀州御殿千代橋のことで、祐全の娘分として祐天寺に奉公していたということです(文政10年「祐天寺」参照)。千代橋は文政10年(1827)に逝去したことがわかっているので、このときは生前に法号を得ていたものと思われます。
この年、回向院で嵯峨清涼寺釈迦如来像の開帳がありました。祐応は結縁し、仏工小林氏に命じてこの尊像を写しました。この像はその後は深川霊巌寺に移り、さらに明治12年(1879)に戸塚(神奈川県)光安寺住職海翁に譲られて、現在に至ります。
2月、祐応は師祐全の命終ののちは大和尚号を許してくれるように増上寺役所に願書を出しました。
2月15日、増上寺役所より呼状が来て祐応は参上しました。4役者が列席の席で祐全に大和尚の号を許す旨が書付で仰せ渡されました。大僧正念海直筆の免許状も渡されました。
秋、祐応が京都(中京区)満福寺(浄土宗西山派)の名号を書写しました。「為念仏興隆」とあります。190センチメートル近くある大名号です。満福寺は天明8年(1788)に火災に遭い、当時は復興の途上にありました。
12月17日、のちに祐天寺11世住職となる祐梵の妹が逝去しました。法号は智現童女です。
この頃、祐応は名号付き柱腰を作成しました。
祐天寺と関係の深い内藤家には3つの流れがあります。1つは祐天上人の出身地である磐城藩(福島県いわき市)からのちに延岡藩(宮崎県延岡市)に転封した内藤家、次に棚倉藩(福島県棚倉町)から村上藩(新潟県村上市)に転封した内藤家、それに絵島事件(正徳4年「事件・風俗」参照)で有名な高遠藩(長野県高遠町)の内藤家です。
祐天上人は内藤忠興が藩主の時代に磐城に生まれ、2代のちの義孝の時代に最勝院を復興し常念仏をすることを藩主に依頼しています。その信仰は延岡藩に移封した初代政樹、3代政脩、5代政和にも及び、その藩主と関係者の法名が祐天寺過去帳に納められています(政脩の母について寛政12年「祐天寺」参照)。
棚倉藩内藤家は代々念仏信仰が厚く、弌信の代にその命により蓮家寺において常念仏を祐天上人寄進の阿弥陀仏像で開闢したと伝えられ、弌信が施主となった西国三十三観音堂建立の際も祐天上人が本尊の開眼をしています。弌信自身とその関係者の法名が祐天寺過去帳に残されています。
高遠藩内藤家については、安永5年(1776)に藩主を務めた4代頼尚の関係者、6代頼以、7代頼寧らの法名が納められました。
鎌倉光明寺を菩提寺に持つ内藤家は祐天上人とも密接な関係を持ち、その後も祐天寺に信仰を寄せていたようです。
10月、台命により伝通院46世霊麟が知恩院62世住職となりました。12月には知恩院に入院し、翌2年(1802)4月に大僧正に任ぜられています。
在任期間は4年に及び、文化3年(1806)4月に68歳で遷化しました。
寛政12年(1800)12月、このところ得撫島に居住しているロシア人についての評議が幕閣内で行われていました。寛政4年(1792)に来航したロシア使節に、日本が鎖国の状態であり、通商は行わないと伝えていたことから、得撫島のロシア人に対して退去を勧告し、もし従わないのであれば捕らえ、場合によっては武威を示すためにも殺してもよいのではないかとの意見も出されました。しかし、羽太正養と三橋成方は外国が相手では双方の事情も異なるであろうし、交易目的の商人にすぎないのだから役人を派遣して交易が国禁であることを伝え、様子を見てはどうかと意見しました。幕府は正養らの意見を採用し、富山元十郎と深山宇平太が得撫島に派遣されることになりました。
命を受けた元十郎らは、享和元年2月に江戸を出発して、6月に択捉島経由で得撫島に渡り、その数日後にはヲカイワタラの丘に「天長地久大日本属島」と刻まれた標柱を立てました。3年前に近藤重蔵(文政9年「人物」参照)らが択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てていましたが、今回は「属島」という言葉が付けられ、日本の領地であることを明確にしたものでした。
7月4日にはトウボに赴き、ラッコ猟のために滞在していたケレトフセらロシア人に会って交易が国禁であることを伝えたところ、ケレトフセが退去すると約束したので元十郎らは帰途に就き、10月に江戸に戻りました。しかし、享和2年(1802)に重蔵らが確認したところ、依然として退去する様子がなかったことから、享和3年(1803)にはアイヌ人に得撫島への出稼ぎを禁止したため、ロシア人は事実上交易ができなくなり退去しました。幕府の蝦夷地に対する積極性が感じられる出来事です。
この年、寛政の三奇人と言われる蒲生君平(文化10年「人物」参照)が、歴代天皇の墓所である山陵を調査して2巻にまとめました。1巻には大和・河内・和泉・摂津および畿内の山陵54か所、2巻には京都とその周辺の山陵38か所が収められました。それぞれの山陵の典拠となる史書や記録類に古図や伝承なども合わせて、君平自身の行った調査に基づいた考察が付けられています。
ただし、文章が難解なうえ一般の人々が興味を持つような内容ではなく、また山陵の崇敬を説くことは尊王思想にも通じることから幕府にとがめられることも考えられました。そのため出版を引き受けてくれる書店が見付からず、自費出版するよりほかに道はありませんでした。7年掛かりで資金を集め、ようやく文化5年(1808)に出版に漕ぎ着けますが、その喜びもつかの間、危惧していたとおり君平は町奉行書に出頭を命じられます。しかし君平は、水戸光圀が山陵復古の宿願を持っていたこと、自分はその光圀の遺志を継いだのだと主張し、幸いにも罰せられずに済みました。
現在考古学で使われている前方後円墳という用語を初めて使うなど、君平は古墳研究に大きな影響を与え、また幕末には本書が山陵復興の機運を高めて尊王論台頭の一因ともなりました。
7代目市川団十郎は、5代目団十郎の娘すみの子として生まれ、6代目が早く亡くなったことから、寛政12年(1800)11月に10歳で7代目を襲名しました(寛政12年「出版・芸能」参照)。文化3年(1806)には祖父の白猿(5代目団十郎)も亡くなり、それから7代目は自力で劇界の荒波を乗り切っていかねばならなくなりました。
文化8年(1811)に7代目は初役で『助六由縁江戸桜』を上演しました。意休は5代目松本幸四郎、揚巻は5代目岩井半四郎という大顔合わせであり、衣装・小道具にも贅を凝らした豪華な舞台は後々までの語りぐさとなりました。
7代目は家の芸の荒事を上演していく一方で、世話物にも才能を見せます。鶴屋南北の『桜姫東文章』の清玄と釣鐘権助、『色彩間苅豆』の与右衛門、『東海道四谷怪談』の民谷伊右衛門などは、7代目の傑作とされます。色悪(女性に人気がある悪人)と呼ばれる分野を開拓した上演でした。
文化・文政期の江戸歌舞伎の特色の1つに、1人の役者がいくつもの役を早変わりで演じることが挙げられますが、7代目はこれも積極的に取り入れて人気を博しました。
文化12年(1815)には河原崎座の『慙紅葉汗顔見勢』(文化12年「出版・芸能」参照)で政岡、仁木、与右衛門、累をはじめとする10役を演じました。当時25歳だった7代目はすでに1、000両の給金を取っており、千両役者として江戸劇界の人気者になっていたことがわかります。
天保3年(1832)3月に市村座で『助六』を上演し、そのとき息子の6代目海老蔵に8代目団十郎を襲名させ、自分は7代目海老蔵になりました。42歳でした。また、このとき7代目は歌舞伎十八番制定を公表しました。歌舞伎十八番とは、市川家が代々演じてきた作品のうちの代表的なもので、暫・七つ面・象引・蛇柳・鳴神・矢の根・助六・関羽道行・押戻・採・鎌髭・外郎・不動・毛抜・不破・解脱・勧進帳・景清です。
天保11年(1840)3月、河原崎座において7代目は『勧進帳』を初演しました。謡曲『安宅』をほとんどそのまま利用した演出は斬新で、講釈の『山伏問答』を取り入れた問答も劇に迫力を与えました。
『勧進帳』は現代に至るまで最大の人気狂言となっています。
天保の改革は劇界にも多大な影響を与えました。天保13年(1842)4月6日、7代目は南町奉行に召され、手鎖のうえ家主預かりとなり、さらに6月22日に至って江戸十里四方追放の刑に処せられました。改革に反して奢侈の生活を送り、舞台でも贅沢な道具を使っていたというのが理由です。7代目は成田屋七左衛門と改名して成田山新勝寺の延命院に身を寄せ、そのあと大坂に上り、地方の芝居に出演するようになりました。
嘉永2年(1849)12月26日、ようやく7代目に特赦が下りました。7代目は直ちに帰府し、3月17日から河原崎座に出演しました。『難有御江戸景清』という作品でした。闇のようだった江戸の劇界が、自分の帰府によって再び夜明けを迎えたという意味の題で、相変わらずの強気がわかります。
嘉永5年(1852)9月、河原崎座で一世一代の名残として『勧進帳』の弁慶を演じました。そののち嘉永7年(1854)8月また大坂に上り、息子の8代目団十郎とともに中の芝居に出演しようとしていたとき、8代目が自殺するという事件に遭遇しました。7代目はその頃大坂と京都を中心として堺、名古屋、伊勢、兵庫などを公演して回っており、江戸に帰ってきたのは安政5年(1858)5月でした。翌安政6年3月23日、69歳で逝去しました。