明顕山 祐天寺

年表

寛政12年(1800年)

祐天寺

祐忍、遷化

2月8日、祐天寺7世祐忍が遷化しました。
法号は性蓮社入誉上人源阿愚住祐忍和尚です。世壽50歳。法臘(出家してからの年数)40年でした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐応、祐天寺8世に晋山

祐天寺8世として祐応が晋山しました。初めは増上寺の酉蓮社にいた練城の弟子で、練山と号していました。のちに祐全の弟子となった人物です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

源正寺名号付き地蔵像、建立

2月、大坂源正寺で台座に祐天上人名号の彫られた地蔵像を建立しました。

参考文献
祐天上人名号付き地蔵像台座銘文(大阪源正寺)

地蔵堂後方、建て継ぎーその3

閏4月8日、松平周防守へ作事小屋を造りたい旨の届けを出しました。掛かりの役人高木平左衛門に差し出したところ、即日聞き届けられました。10日、新地奉行筒井次左衛門、御鳥見衆後藤与次左衛門へその旨を書付で届けました。

同16日に釿初めがあり、9月21日に上棟の運びとなりました。大工棟梁は堀井斤十郎であり、宮殿を新規にした大仏師は神明町の村上宗善です。

参考文献
『寺録撮要』2

宝篋印塔、建立

4月17日に宝篋印塔と、その前の穴くぐり石が建立されました。宝篋印塔には祐天上人、祐海、祐全、祐応の名号が刻されており、また法号が4霊記されています。穴くぐり石については、いつ頃からか不明ですが、穴をくぐると厄よけになる、特にはしか除けになると言い伝えられ、近隣では現在まで信仰されてきました。

参考文献
「宝篋印塔」(『目黒区の名墓と供養塔』、目黒区教育委員会編集・発行、1979年)、「目黒祐天寺の穴くぐり」(平山勝蔵、『目黒郷土研究』313号、目黒郷土研究会、1981年)

仙宥院、寂

尾州宗睦寵女で内藤政脩実母である仙宥院が逝去しました。
祐天寺に納められている法号は仙宥院殿桃園淨見禪定尼です(享和元年「説明」参照)。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

水野忠見室悟眞院、逝去

水野壹岐守忠見の正室が逝去しました。祐天寺に納められた法号は、悟眞院殿澂蓮社宣誉觸忍智照大法尼です(「説明」参照)。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

説明

水野家と祐天寺

祐天上人あるいは祐天寺と関係の深い水野家とは、徳川家康の生母である伝通院殿の出自の系譜に連なる家系です。

水野家の宗旨は元は曹洞宗でしたが、伝通院殿の甥にあたる忠清(初代松本藩主)は、家康の遺命によって浄土宗へ改宗し代々守ることを家訓として遺しました。下って松本藩4代忠周は13歳で母を亡くし、諸宗の教えを追い求めましたが、祐天上人の教えに会い、浄土宗に安心決定したのでした。

また忠清の4男忠増から3代目の忠定は祐天上人から血脈を受けた法心院と蓮浄院そして竹姫らの大奥の事務をつかさどる広敷番を務めています。4代目忠見も竹姫の広敷を務めており、そのことが縁となって、忠定夫妻・忠見夫妻ともに祐天寺に法名が納められました(「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2、『寛政重修諸家譜』
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