大雲寺(現、江戸川区)に、この頃祐全の名号付き墓石が建立されました。
この年、祐全は祐天寺住職を隠退しました。5月26日、八王子極楽寺(八王子大善寺末)にいた祐忍(祐全の弟子)がその跡を継ぎ、7世として祐天寺に住しました。
2月9日、木村与兵衛の娘で、のちに祐天寺10世となる祐麟の妹が逝去しました。
法号は春光童女です。
7月13日、のちに祐天寺8世となる祐応の実父が逝去しました。
法号は長養院常誉孝順居士です。
9月、大坂源正寺で祐天上人御影堂を建立しました。祐天上人名号付き喚鐘も鋳造しました。5世円随が住職の時代であり、施主は藤田氏です。これらのことは現在も残っている喚鐘の面に刻されています。
前年に松平周防守へ出した願書について、何回か呼び出しのうえ取り調べが行われました。そのうえで11月19日、お取り上げになりました。内容は、先年許可を受けた堂司を置く場所(天明6年「祐天寺」参照)の広さを狭くしたうえで地蔵堂建て継ぎの工事に取り掛かりたいというものです。
12月6日に呼状が来て7日に役僧顕岩が参上すると、役人高木平左衛門が出会い、建て継ぎの件が聞き届けられたことを告げました。
12月12日、新地奉行筒井次左衛門と御鳥見後藤与次右衛門へ願書を届け、お聞き置きとなりました。
祐天上人は享保2年(1717年。米沢阿弥陀寺の史料を受け継いだ山形県米沢市西蓮寺所蔵の鉦の銘による。なお、同寺蔵『當寺境内徭寺堂絵図等書上之覚』によると開白は享保3年―1718―である)米沢阿弥陀寺の常念仏を開白されました(文化元年「祐天寺」参照)。寛政11年にその常念仏の3万日の供養塔が建立されました。
白河(福島県)小峰寺蔵『諸尊画巻』(竹澤養渓惟房筆)という絵巻の奥に、祐全が名号を書しました。「祐天寺六世在住四十年」とあり、書写がこの頃であることがわかります。