内玄関と庫裏の建て替えについて、板倉周防守より数度にわたりお尋ねがあり、2月にお答書を出しました。それについて周防守がいろいろと糺され、閏7月13日に全容が決まりました。
それによると、御成の折、寺中にある僧俗はおよそ50人ですが、皆台所に入れて目障りにならないようにし、ご出役の方の詰め所も台所を屏風で仕切って造り、御賄方より来たお道具の入った長持も台所へ置いていました。そこへ、お供の方へ出す食事の支度をするときには給仕の者が台所まで入り込むので、通る道もないくらいの混雑ぶりでした。そのほか天英院、月光院月忌、千部法会の折に大衆の食事を出すときも同様でした。
これまで尊霊さまへの御供所は別にありませんでしたが、このたび別に造りました。また、火を燃やすところの天井は茅葺きで危なかったので、土塗り込めにするなど寺内の造りを部分的に変えました。
13日、見分のため御小人目付須藤徳五郎が来寺しました。役僧祐穂、納所弁山が相手をしました。
晦日、板倉周防守より明日役僧を差し向けるよう呼状が来ました。8月朔日、役僧顕岩が伺ったところ、寺社役人鈴木重兵衛が出会い、台所向きの建て替え修復は願いのとおり許可される旨が言い渡されました。
4月26日、目黒長泉院に祐全の名号付き石塔が建立されました。聖誉大空了本法子の発願によるもので、百萬遍念仏講中の人々の寄進により建立されました。祐全のほかに増上寺53世智堂、増上寺塔頭(小院)妙定院2世定阿、長泉院4世堯雲の名号が彫られています。
松本(長野県)光明院の地蔵菩薩像は、祐天上人本地仏であると言われていました。6月、地蔵菩薩像の所持者である松本の倉品七郎左衛門が江戸に出た折、光明院の地蔵菩薩像を祐天寺に納める話を取り決めました。その代わりにこれまで祐天寺に安置してあった地蔵菩薩像を、光明院へ祠堂金100両を付けて納めることになりました。
倉品七郎左衛門は松本藩主戸田(松平)光行に上申して以上を決め、12月23日、光明院地蔵菩薩像を祐天寺に遷座しました。
6月3日、寺社奉行月番松平右京亮へ、地蔵堂前と念仏堂前を切石で土止めしたいという件につき、届書を差し出しました。増上寺役所の添簡とともに役僧伝哲が持参したところ、役人高木悠助が受け取り、しばらくして聞き届けられた旨が仰せ渡されました。
9日、新地月番筒井治左衛門と御鳥見衆へ同様の絵図と書付を届けました。
5月15日、現在は茨城県守谷市雲天寺にある祐天上人名号の裏書を祐全が執筆しました。
永代施餓鬼講410霊の15日の切回向が開始されました。永代施餓鬼講はいくつか結成されており、そのうちの1つです。発起人は鹿島屋佐兵衛・百足屋善右衛門ら15人です。
のちに祐天寺9世となる祐東が、越前大野善導寺へ14世として入山しました。