明顕山 祐天寺

年表

寛政8年(1796年)

祐天寺

灘目の海難供養碑

正月23日の夜、伊豆の海に激しい風が吹き、大波が海原を揺るがしました。摂洲(兵庫県)兔原郡灘目の船々は風にあおられて、そのうち観力丸と永寿丸の2艘は沈んでしまい、それに乗っていた舵取りをはじめとする33人は海の藻屑と消えました。やがて、それを悼む商業問屋仲間が供養碑を祐天寺に建立しました。

参考文献
供養塔に刻まれた文、「目黒区の供養塔」(『目黒区の名墓と供養塔』、東京都目黒区教育委員会編集・発行、1979年)

霊光院、逝去

将軍家斉の子息霊光院が逝去し、祐天寺に法号が納められました。
法号は霊光院殿露照明幻大童子です。霊光院の実母は和歌山です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐麟養父、逝去

8月2日、のちに祐天寺10世となる祐麟(文政12年「祐天寺」参照)の養父が逝去しました。
法号は圓理宗清信士です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

内玄関等建て替え建え―その1

10月26日に寺社奉行板倉周防守へ、内玄関と庫裏などの建て替えの願いを、絵図を添えて申し出ました。

参考文献
『寺録撮要』3

忠道室、逝去

2月25日、酒井雅楽頭忠道(酒井家について「説明」参照)の正室が逝去しました。盤姫と言い、井伊掃部頭直幸の息女です。祐天寺に納められた法号は清雲院殿盤室幽鮮大姉です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

十念寺名号、再興

この年、須賀川(福島県)十念寺の祐天上人名号が再興されました。

参考文献
祐天上人名号の箱書き(須賀川十念寺蔵)

説明

酒井家と祐天寺

松平別流の酒井家も、祐天寺に信仰を寄せていました。酒井忠以正室の光訓院殿恭誉壽安貞照大姉(文化元年-1804-逝去)という法号が祐天寺にあります。高松(松平)讃岐守頼恭の息女です。

また、忠以の子息である酒井雅楽頭忠道の正室の清雲院殿盤室幽鮮大姉(「祐天寺」参照)という法号もあります。さらにその息女の齢性院殿春岸流光大童女という法号もあります。母堂と同じ、寛政8年2月の逝去です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寛政重修諸家譜』2

寺院

宝松院住職、別当職を謝す

この年の11月、宝松院住職は将軍家斉に、住職となったことに対してお礼をしました。このときの宝松院住職は善霊だったと思われます。

増上寺山内の宝松院は、台徳院殿(秀忠)の霊廟を守護する別当寺院として、台徳院殿の薨去後に良阿により開創されました。これは、良阿が台徳院殿入棺の際に香華灯火をつかさどった縁によります。初めは宝樹庵と言いましたが、のちに名を改めたのです。また、祐天上人弟子の雲洞(宝永6年「祐天上人」、享保17年「祐天寺」参照)が、宝松院6世を勤めました。

参考文献
『続徳川実紀』1、『大本山増上寺史 本文編』(大本山増上寺編集・発行、1999年)、『縁山志』3(『浄土宗全書』19)、『浄土宗大年表』

出版

『高尾船字文』刊行

読本の『高尾船字文』が刊行されました。滝沢馬琴(文化2年「人物」参照)による読本の最初の作品です。中国の『水滸伝』の趣向を利用して書かれています。この書の後編を馬琴は『水滸累談子』と題して刊行する予定で、その中には累の話が盛り込まれるはずだったようですが、前編であるこの書が好評でなかったためか出版されませんでした。

参考文献
「『高尾船字文』解題」(国文学論叢、檜谷昭彦、『近世小説―研究と資料』、慶応義塾大学国文学研究会編、至文堂、1963年)

芸能

『恋闇皐月嫐』上演

5月5日より桐座にて、累物の歌舞伎『恋闇皐月採』が上演されました。信田小太郎の世界です。かさねは瀬川菊之丞、与右衛門は沢村宗十郎が演じました。

参考文献
『恋闇皐月嫐』桐座絵番付(早稲田大学演劇博物館蔵)、『歌舞伎年表』

人物

5代目 市川団十郎

寛保元年(1741)~文化3年(1806)

5代目 市川団十郎は4代目の実子として生まれ、幼名を梅丸と言いました。松本幸蔵を名乗ったのち、宝暦4年(1754)11月、父の2代目 松本幸四郎が4代目 団十郎を襲名したため、その名を継いで3代目 幸四郎となりました。明和7年(1770)に父親旧名の幸四郎に戻ったため、その跡を継いで5代目 団十郎となりました。30歳のときでした。

安永・天明期(1772~1788)には『毛抜』、『鳴神』、『助六』などを演じ、また女形、実事など広い範囲の役を演じ、5代目 団十郎は名優と呼ばれました。

しかし、団十郎は名声におごることなど少しもない謙虚な人柄であったことが、団十郎自身の書いた覚え書き(大震災で焼失してしまったが、伊原青々園が写したものが現在も残る)からしのばれます。それには、
一、 定九郎のように新演出ばかりしていてはたまらない。時々大当たりを取れば良い。
一、 何事も舞台でしでかすように、舞台に凝る。ほかのことに凝ると、舞台が悪くなる。
一、 出世をすると、悪い点を指摘してくれる人がいなくなる。そこで、悪い点を指摘してくれる人をこしらえておく。
一、 いつまでも自分はへただと思っているのが良い。自分をじょうずだと思うと、もうそれきりである。
一、 良い役も悪い役も同じようにする。悪い役でも、凝って、同じようにする。
一、 今の人、昔の人のほめることに2つある。15人なら10人に向くようにすることが大切だ。また、流行に遅れたことをしないことが肝要だ。

団十郎は寛政3年(1791)51歳のとき、息子の海老蔵に6代目を襲名させ、自分は蝦蔵と改名しました。寛政8年11月、都座で一世一代の興行を行って引退し、本所牛島の反古庵に隠棲して成田屋七左衛門と称しました。山東京山が反古庵の様子を記した文章があります(『蜘蛛の糸巻』)。それによると、「6畳と台所のみで、天井は張らず、茅屋根の裏が見える。庭よりの上がり口に、双六盤の古くなったものを据えて踏み段とする」という質素な庵室だったようです。

5代目は狂歌・俳諧をよくし、文人たちとも幅広い交際がありました。俳名は三升、白猿などいくつかあります。狂歌では花道つらね、反古庵などと名乗りました。親交のあった文人仲間には、四方赤良(大田蜀山人。大田南畝)、鹿都部真顔らがいました。また、「三升連」を組織した烏亭焉馬などは熱心なひいきで、団十郎の名の音に似せて「談洲楼」と号していたほどでした。

5代目 団十郎は文化3年10月30日に逝去しました。祐天寺にその法号還誉浄本臺遊法子が納められています。

参考文献
『蜘蛛の糸巻』(山東京山、『日本随筆大成』2期7巻)、『市川団十郎』(人物叢書、西山松之助、吉川弘文館、1960年)、『市川團十郎代々』(服部幸雄、講談社、2002年)、「祐天寺と団十郎―初代~五代目の信仰の問題―」(浅野祥子、『歌舞伎―研究と批評』15号、1995年)
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