明顕山 祐天寺

年表

寛政7年(1795年)

祐天寺

金襴袈裟の許可

正月14日、祐全は金襴の袈裟の着用を許可されました。金襴の袈裟は宗門の規則で、四箇本山(知恩院、知恩寺、金戒光明寺、清浄華院)と檀林、もしくは徳川家菩提所の僧侶でなければ着用は許されないのですが、祐天寺は教化が広く及んだということで、祐全1代に限り許可されたものです。

参考文献
『寺録撮要』3、『浄土宗史』(大島泰信、『浄土宗全書』20)

檀嶺、寂

1月23日、岩戸慶岩寺3世で船橋浄勝寺に住していた檀嶺が寂しました。祐天寺4世檀栄の弟子である檀州(寛政6年「祐天寺」参照)の弟子です。法号は頂蓮社喬誉上人檀嶺和尚です。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』』

表惣門、建て替え

この年、表惣門の建て替えが行われました。

参考文献
『寺録撮要』2

千部修行

8月13日、寺社奉行月番青山下野守へ、千部修行10年を以前のとおり御許可くださるよう願書を持参したところ、役人河野五郎左衛門の預かり置きとなりました。9月6日、同所内寄合にて、来たる辰年(寛政8年―1796)より丑年(文化2年―1805)まで10か年の千部修行執行が許可されました。お礼回りを前のとおり行いました。

参考文献
『寺録撮要』3

妙仙院、逝去

10月12日、伊勢国(三重県)久居藩6代藩主藤堂高雅の継室千賀(大和郡山藩2代藩主柳沢信鴻の養女)が逝去し、妙仙院殿示實眞相大姉の法号が祐天寺に納められました。供養を祐天寺に依頼したのは久居藩7代・津藩9代藩主高嶷の側室今津氏(津藩10代藩主高兌生母の智峯院)と考えられます。

妙仙院は祐天寺地蔵堂へ前机と御膳部を寄進しており、これは天明8年(1788)7月に「開山本地堂」と揮毫した扁額を奉納した養父信鴻の影響と考えられます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、地蔵縁起碑、『三百藩藩主人名事典』

祐厳、寂

10月18日、鎌倉(岩瀬)大長寺の祐厳が遷化しました。祐説(宝暦13年「祐天寺」参照)の弟子で、寛政元年(1789)から大長寺に入院していました。法号は妙蓮社洗誉上人頑愚染阿祐厳和尚と、大長寺資料にあります。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』、『大長寺資料』(大長寺蔵)』

智堂、『龍珠記』を記す

冬、増上寺53世住職智堂が『龍珠記』を記しました。「珠がかつて不二山(富士山)の麓にあったが、龍のために空中に上がり、目前に落ちてきた」という由来を書いています。この文章は、『寺録撮要』3巻冒頭に写し置かれています。

参考文献
『寺録撮要』3

説明

藤堂家と祐天寺

元禄11年(1698)、津藩の藩主藤堂高近(のちに高睦と称す)は、自身が手に入れた祐天上人大名号を安置する寺院を家臣に尋ねました。家臣吉武氏が奏上したのが城下の念仏寺でした。祐天上人大名号(長さ3メートル余り)は、今でも念仏寺に霊宝として蔵されています。

後代になって津藩9代藩主高嶷の子息・高崧が施主である法号が祐天寺にいくつも納められています。これは高嶷継室の妙仙院(「祐天寺」参照)の影響と考えられます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、祐天上人大名号箱書(三重県上野市念仏寺蔵)、『藤堂姓諸家等家譜集』(林泉編集・発行、1984年)、『寛政重修諸家譜』14

寺院

祐水、幡随院を訴える

2月、知恩寺祐水(文化12年「祐天寺」参照)は、江戸幡随院が末寺の礼を取らないことを、増上寺録所と諸檀林に訴えました。しかし、事が錯綜して決着は付きませんでした。

参考文献
『百萬遍知恩寺誌要』(浄土宗全書20、『寺誌宗誌』)、『浄土宗史之研究』(伊藤祐晃・塚本善隆編、伊藤祐晃師遺稿刊行会、1947年)、『浄土宗大年表』
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