明顕山 祐天寺

年表

寛政5年(1793年)

祐天寺

祐水、知恩寺に住す

5月13日、霊巌寺にいた祐水(本年「説明」、文化12年「祐天寺」参照)が台命により、知恩寺に54世として住しました。祐水は祐海に就いて出家し、増上寺で学んだ人物です。「祐水尊者移住西京知恩寺」という詩が『寺録撮要』に載っています。

紫磨金色映晴空 百萬流源洛水東
君自蓮花号不著 徳茖久貯埋柯風というものです。「不著」とは、圓蓮社順譽上人不著心阿祐水大和尚という、祐水の法号の一部です。今でも知恩寺御影堂には、祐水が入山のときにもたらしたと言われる祐天上人像が祀ってあります。

参考文献
『寺録撮要』4、『浄土宗大事典』、「百万遍知恩寺と祐天上人」(玉山成元、『THE祐天寺』18、祐天寺出版部、1991年)

銅瓦葺き―その6(位牌堂・玄関・仁王門)

11月5日、寺社奉行板倉周防守へ、このたび建立する位牌堂と玄関3坪、仁王門8坪の屋根を銅瓦葺きにしたいという願書を差し出しました。

参考文献
『寺録撮要』5

説明

祐水と弟子たち

祐水(本年「祐天寺」・文化12年「祐天寺」参照)は多くの弟子を育てました。海門(伊丹正覚寺住。文政元年「祐天寺」参照)、香堂(増上寺幹事職、鴻巣勝願寺住、文政6年「祐天寺」参照)、順昌(堺南十万長泉寺住、文化13年「祐天寺」参照)、順良(幡随院・大光院・光明寺・知恩院に住、弘化2年「祐天寺」参照)、祐麟(祐天寺10世住職、嘉永6年「祐天寺」参照)、祐順(増上寺講釈、文政8年―1825―寂)、祐恩(増上寺扇間席、天保2年―1831―寂)らです。
順良の弟子である観随の弟子・祐鎧が祐天寺16世となり、さらにその弟子の愍随が17世を継ぐ、というように、のちには祐水の弟子の系統の僧侶が祐天寺を担っていくことになります。

参考文献
『寺録撮要』1
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