現在は浦賀(神奈川県横須賀市)東林寺前にある祐全名号石塔は、この年の2月に建立されたと記録されています。浦賀にはもとは無常院という寺があり、僧侶の葬式を行っていました。それゆえに昔から、僧侶の土饅頭が並んでいました。それを知る者が香華をたむけていましたが、いつの間にか荒れ果てていました。石渡(江戸屋)半五郎は若年から浄土宗に心を寄せていましたが、ここの惨状に心を痛め、石の碑を建て、散らばった髑髏や古い骨をその下に埋めました。碑には祐全の書した名号を彫り付けました。
3月3日、元郡山藩の藩主である松平香山(柳沢信鴻)が逝去しました(天明7・8年「祐天寺」、本年「説明」参照)。祐天寺地蔵堂に扁額を寄進した人物です。祐天寺に納められた法号は、即佛心院無譽祐阿香山大居士です。
この年、暮春の日付で『祐海上人略傳附録利益記』が完成しました。「再治梓行」とありますので、刊行されたかどうかは定かではありません。著者は「妙有庵八一翁杜多枹山記」とあり、枹山(寛政2年「人物」参照)であることがわかります。
祐海の護符名号を呑んだ下総、常陸の人々の病が癒えた話を、具体的に名を挙げながら紹介しています。
8月6日、浅草唯念寺に水難供養塔が建立されました。1年前の寛政3年(1791)8月4日に起きた大津波による溺死者を供養するもので、祐天名号が彫られています。
8月23日、寺社奉行板倉周防守へ、玉仙院の位牌堂の建て継ぎ(建て増し)を求める願書と絵図を出しました。位牌が増え、手狭になったからです。増上寺役者観智院の添簡を添えました。
9月17日、位牌堂建て継ぎの場所を見分するため、寺社奉行板倉周防守より大検使木村力蔵、小検使伊藤岡右衛門と同心小頭同心が来て、見分が済みました。
11月3日、板倉周防守より呼状が来て参上したところ、位牌堂建て継ぎは許可された旨の仰せ渡しがありました。即刻、増上寺役所へもその旨を届けました。
11月5日、御鳥見罔浦五郎左衛門と新地奉行月番へ、位牌堂建て継ぎの許可が下りた旨の届書を使僧をもって差し出しました。
この年、赤坂お花講が15日の切り回向に321家分、8、866霊の供養を申し込みました。赤坂お花講は、大山参詣などでは中心的な役割を果たしている大規模な講で、今でも活動しています。
松平香山(柳沢信鴻。天明7・8年「祐天寺」参照)は柳沢吉保の子である柳沢吉里の子として、享保9年(1724)に生まれました。俳号は米翁が有名です。観劇家としても知られ、香山の日記『宴遊日記』、『松鶴日記』に記された観劇記録は、貴重な資料とされています。
祐天寺地蔵堂扁額を香山が寄進しており、その頃祐天寺とさまざまな交流があったことが、香山の日記からもしのばれます。『松鶴日記』天明8年5月23日の条には、「祐天寺より保光脚痛の護符来る山内の筍貰ふ 鰹而百万遍執行兼里光よりも百万遍頼遣せし答も一緒に申来る」とあり、子息保光の脚痛のために護符を祐天寺から贈ったこと、香山が祐天寺で百万遍執行を希望したことなどがわかります。
祐天寺には香山の法号のほかに、香山が納めた法号として「是法院心誉自熹大姉」、「実相院殿晴誉澄月信士」、「無相院一誉如実信士」が納められており、『松鶴日記』天明8年7月4日の条には、前2者の位牌を建てるよう祐天寺に頼んだという記事もあります。
2月、伝通院44世の智堂が増上寺53世住職となり、大僧正に任ぜられました。智堂は伊勢国(三重県)の出身で、17歳で出家ののちに増上寺42世了般(元禄15年「祐天寺」・元文3年「寺院」参照)から五重相伝を受けました。深川霊巌寺在任中に弟子の不始末の責任を取って隠居し、その後7年間各地を遊行しましたが、寛政2年(1790)に台命により伝通院住職となったのです。
智堂が増上寺在任中には、将軍家斉子息・竹千代の葬儀の導師を勤め、文昭院殿(家宣)霊廟修理が終了し、台徳院殿(秀忠)、桂昌院殿(綱吉生母)霊屋修理が竣工しました。また、寛政7年(1795)には祐全に対して、その教化活動を賞し、金襴袈裟の着用を許可しています(寛政7年「祐天寺」参照)。
寛政11年(1799)2月に辞職、翌12年(1800)5月に75歳で遷化しました。
閏2月24日、『累解脱打鋪』が刊行されました。本作は、寛延3年(1750)8月1日より江戸肥前座で上演された人形浄瑠璃『新板累物語』(寛延3年「出版・芸能」参照)の改題本です。