明顕山 祐天寺

年表

寛政3年(1791年)

祐天寺

上臈梅小路、逝去

種姫の上臈であった梅小路が3月晦日に逝去し、祐天寺に葬られました。
法号は永高院殿相誉顯阿祐好教壽大法尼です。27歳でした。

藤波従二位□神祗大副大中臣朝季忠郷の娘で、諱を季子と言いました。位牌も祐天寺に残ります。梅小路が使えた紀州の種姫(貞恭院)とは、徳川家治の養女の種姫(実父は田安宗武)です。

なお、貞恭院の局として、ほかに響流院、普音院、慈眼院らの法号が祐天寺に納められています。

参考文献
『徳川諸家系譜』2、『本堂過去霊名簿』

家斉子息、逝去

5月24日、将軍家斉の子息善流院が逝去しました。母はお楽の方です。
祐天寺に納められている法号は善流院殿猶光了幻大童子です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

竹姫局森衛、逝去

7月3日、竹姫の局で若年寄の森衛が逝去し、祐天寺に葬られました。松平冨之助(兵庫)の娘で、法号は栴林院殿本誉栄昌法尼です。本性院殿(享保18年「祐天寺」参照。この人物の父も松平兵庫であるところから、森衛の姉と考えられる)、見珠院殿(安永5年「祐天寺」参照)と合葬した墓石が祐天寺墓地に現存しています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

下馬札、修復

8月24日、大風雨で表門の下馬札が吹き倒れたので、ひとまず縄で結わえておき、寺社奉行月番牧野備前守へ修復の願書を出しました。表門裏門ともに見分のうえ、建て替えて欲しいという主旨でした。増上寺役者、常行院の添簡をともに持参しました。役人山口数馬に差し出したところ、追って役僧を伺わせるよう申し達しがありました。

9月8日、役僧鋲亮を牧野備前守へ伺候させたところ、役人安田多膳が出会い、もうすぐ進達になるので、近々お沙汰がある旨を申し聞かされました。

9月12日、作事方小役飯村次郎吉、同常普請同心飛田甚太郎、御手大工前嶋治郎右衛門が見分のため来寺しました。役僧弁山が立ち会い、両門の見分が済みました。もっとも裏門の札は朽ち損じていたので、取り替え修復になるとのことでした。13日、見分が済んだことを牧野備前守へ届けました。

参考文献
『寺録撮要』5

地蔵堂前井戸、建立

11月29日、地蔵堂(本地堂)前に新しく井戸を建立し、供養が行われました。祐全が石に名号と「左 王誉妙龍 雨甘露法潤衆生故」「右 龍誉高天 八功徳水湛然換満」などの文句をしたため、井戸に入れました。四谷世話役は遠州屋源四郎、伊勢屋与五郎、小田原屋伝八らです。

参考文献
『寺録撮要』2
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