孟夏(陰暦4月)の頃、敦賀(福井県)善妙寺68世嘯凮は祐天上人宝塔名号の裏書きを認めました。それによると、この名号は良閑寺舟外が奥州のある僧から受け取り、それを嘯凮が善妙寺の永世什物としたようです。
近誉円随は自費を投じ、紀州藩以文院の援助を加えて大坂源正寺の再建に取り組み始めました。
4月、伝通院42世円宣が増上寺52世住職となり、大僧正に任ぜられました。円宣は肥前国伊万里(佐賀県)の出身で、7歳で剃髪後、19歳のときに増上寺へ入山して修行に励みました。
増上寺へ晋山した円宣は、山内をよく警護したために将軍家斉(天明7年「人物」参照)からほうびをいただいたこともあり、忙しい修行の合間に弟子たちへ教えを教授するための書物をたくさん著しました。円宣の法弟には耆山(「人物」・天明3年「祐天寺」参照)がいます。
寛政4年(1792)に辞職すると、同年5月には遷化しました。世寿は75歳でした。
4月27日より、大坂道頓堀東の芝居、竹本石之助座で、人形浄瑠璃『薫樹累物語』が上演されました。『伊達競阿国戯場』を改題したもので、身売り系の作品です。
主君足利頼兼のためにと思ってその愛人高尾太夫を殺した相撲取り絹川谷蔵は、高尾の妹累に恋慕され夫婦となりました。姉高尾のたたりで醜くなり、足も悪くなった累ですが、与右衛門と改名した夫との夫婦仲は睦まじいものでした。しかし、頼兼の許嫁歌方姫をかくまう与右衛門を誤解し、姫を与右衛門の愛人だと思った累は嫉妬し、姫を鎌で殺そうとしたので与右衛門に殺されます。
正徳2年(1712)~寛政6年(1794)
耆山は神田に生まれ、姓は栗原氏でした。父を失って出家の志を持ちましたが、母とともに母の実家に身を寄せ、成長を待ちました。11歳のときに増上寺安立院の義誉のもとで剃髪し、僧侶となりました。
聡明でかつ人情も解した耆山は、天神谷の学寮に入って内典・外典の書を広く読みました。僧階は進みましたが、隠遁して青山百人町(青山南町5丁目付近)に庵室・妙有庵を結び、母と住むようになりました。この庵には「万翠一勦」という扁額を掲げていました。耆山と号したのはここに移ってからです。寛延2年(1749)9月、38歳のときでした。
やがて母が亡くなって梅窓院に葬りました。その後は西国へ旅に出ましたがまもなく帰り、それからは礼拝・誦経・念仏を日課として日々変わりなく過ごしました。その合間に友が訪ねてくれば、書を読み詩を作り茶を飲みました。耆山は増上寺にいた時分から服部南郭の門人でもあり、詩を良くしたのです。ことに明和・安永時代(1764~1780)には気軽な人柄が慕われて妙有庵に詩人や文人が多く集まりましたが、その中には菊池衡岳、太田南畝(文政6年「人物」参照)らがいました。
耆山は常に清貧に安んじ、富貴を求めることはしませんでした。また好みがはっきりしており、粗末な食物に腹を満たすよりは、精選されたものを少し摂ることを欲しました。70歳を過ぎても病なく、自炊していましたが、衣鉢を伝える者がいないので、祐天寺に埋めて衣鉢塔(天明3年「祐天寺」参照)を築きました。
耆山はこの塔を見てくれた知己に感謝する詩「謝諸君観顕山衣鉢塔之作」を作っており、耆山の詩集『青山樵唱集』に載せています。
『青山樵唱集』にはまた、祐天寺本堂が銅瓦葺きになった(天明8年「祐天寺」参照)ことを詠んだ詩「祐天寺大殿銅尾新成冦」や、祐天寺のことを詠んだ詩「遊顕山方丈」、祐全のことを詠んだ詩「呈祐天寺老和尚」なども載っています。
「呈祐天寺老和尚」では、「祐天寺法主と道交親し」と述べ、祐全は「恩恵の情多き」人であり、「世を済ひ群民を議」す人であると述べています。また「杖を曳きて時時寶刹に遊べば 魏々たる遺跡に威神を感ず」とあり、耆山がしばしば祐天寺まで足を延ばしていたことがわかります。
耆山は自由に日々を暮らし、寛政6年4月17日、83歳で遷化し、梅窓院に自らあらかじめ建立した墓に葬られました。墓には73歳のときに描いた後ろ向きの自画像と賛が彫り付けてあります。法号は青蓮社香誉耆山玄海和尚です。